彰義隊とは何か?【上野戦争(彰義隊の戦い)や、彰義隊の墓についても解説】

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彰義隊の墓
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週刊ビジュアル日本の合戦 No.26 勝海舟・江戸開城と彰義隊の戦い (2005/12/27号)

 

彰義隊(しょうぎたい)明治維新期に
旧幕臣が編成した反政府集団です。

 

彰義隊とは何か?
上野戦争(彰義隊の戦い)や彰義隊の墓などなど
彰義隊について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

彰義隊とは?

彰義隊 (新潮文庫)

彰義隊とは戊辰戦争
江戸で抗戦した佐幕派の部隊です。

佐幕派とは、府を補する閥です。

 

名前の由来は
”大(あきら)かにする
だそうです。

 

当初の有志は17名程度でしたが
後に3000名の大所帯となりました。

 

彰義隊結成の経緯

明治元年、戊辰戦争の始まりとなった
鳥羽伏見の戦いが起こります。

敗れた徳川慶喜は江戸に戻って
新政府につつしみんで従う態度を示して
上野寛永寺にて蟄居します。

しかし、この行いに不満を持った
旧幕臣である渋沢成一郎が頭取、
副頭取に天野八郎が選出され、
彰義隊を結成します。

 

上野戦争(彰義隊の戦い)の経緯

1868年4月に江戸無血開城が行われ、
徳川慶喜は水戸へ戻ることとなります。

彰義隊は、徳川慶喜の護衛をした後、
寛永寺に戻って寛永寺貫主(頭領)を兼ねていた
輪王寺宮能久(よしひさ)を擁して江戸に残ります。

 

その後、武力衝突を避けようと考えた
勝海舟は彰義隊に解散するよう説得します。

副頭取の天野八郎はこれを断固拒否し、
意見が分かれた渋沢成一郎は離脱します。

 

新政府軍は、彰義隊を敵とみなし、
「軍事の天才」と呼ばれる大村益次郎を派遣したのです。

 

上野戦争(彰義隊の戦い)とは?

上野彰義隊と箱館戦争史

上野戦争とは
1868年7月4日(慶応4年5月15日)
江戸上野にて彰義隊と大村益次郎の
指揮による新政府軍との戦いです。

江戸上野は、現在の東京都台東区です。

 

大村益次郎は、寛永寺に立て籠もる
彰義隊に対して、総攻撃を仕掛けます。

アームストロング砲などの
最新兵器を用いて一斉に射撃し、
わずか1日で彰義隊は壊滅させられました。

 

逃げ延びた一部の彰義隊の人間は、
榎本武揚と旧幕臣の軍艦で逃亡して
のちの函館戦争に参加しました。

 

彰義隊の墓について

彰義隊遺聞_しょうぎたいいぶん_ (集英社文庫)

上野戦争後の彰義隊の扱いは悲惨なものでした。

ゆかりのある者たちが、
彰義隊の遺体の引き取りと供養を申し出ても
新政府は認めずに、幾日も上野山内に
放置されたままだったのです。

 

明治政府から供養の許可が下りたのは
上野戦争から5年も経過した1874年のことでした。

現在の荒川区南千住にある
三ノ輪円通寺の住職仏磨らによって
当地で火葬が行われたのです。

 

最後に

週刊ビジュアル日本の合戦 No.26 勝海舟・江戸開城と彰義隊の戦い (2005/12/27号)

彰義隊とは何か?
上野戦争(彰義隊の戦い)や彰義隊の墓など
彰義隊について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。

 

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