大村益次郎ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
大村益次郎(おおむらますじろう)は
江戸時代から明治時代初期までを生きた長州藩の医師です。
※西洋学者や兵学者でもあります。
誕生時期:1824年5月30日
死亡時期:1869年12月7日
維新の十傑の一人とされ
日本近代兵制の創始者であります。
大村益次郎とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
大村益次郎について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
大村益次郎ってどんな人?
大村益次郎の誕生日
大村益次郎(おおむら ますじろう)は
1824年5月30日(文政7年5月3日)に
周防国(現在の山口県)で村医者の
村田孝益の長男として誕生します。
1842年、大村益次郎は
シーボルトの弟子である梅田幽斎から
医学や蘭学を学びます。
他にも漢学者の広瀬淡窓の塾に入り
漢籍、算術、習字などを学びます。
1846年には大阪で緒方洪庵が開く
適塾で塾頭を任じられます。
その後長州に戻って開業医となりますが、
不愛想な性格などから評判は
あまり良くなかったと言われています。
その後、農家の娘と結婚をしています。
大村益次郎と西洋兵学
1853年に黒船が来航したことで
日本国内は大きく動き始めます。
それに伴い、日本では
蘭学の需要が高まります。
大村益次郎は宇和島藩(現在の愛媛県)に招かれて
その地で蘭学や兵学の講義を始めます。
他にも伊達宗城から蒸気船や砲台の設計を
命じられ、勉強して造ったりしています。
その後も活躍を続け、江戸に上って
長州と江戸を行き来して西洋兵学の
研究と講義を続けます。
大村益次郎と長州藩の軍制改革
1865年、長州藩で、高杉晋作が
奇兵隊を創設すると、大村益次郎は
木戸孝允(桂小五郎)から指導を要請されます。
大村益次郎は馬廻役譜代100石取の
上級藩士となり、大村益次郎永敏と改名。
大村益次郎は、桂小五郎の意見を参考に、
従来の武士だけでなく農民や町人からも
兵士を集って藩が給与を負担するという
軍制改革を行いました。
戦の経験はなくても、幅広い知識を持ち
想像力を持った大村益次郎の作戦は、
非常に正確なものと評価されています。
大村益次郎と戊辰戦争
明治新政府が樹立すると、
大村益次郎は軍の指揮を任されます。
各藩の軍を統括して、
近代兵制の創始者と言われる活躍をします。
1868年に起きた戊辰戦争の上野戦争では
彰義隊を1日で壊滅に追い込みます。
しかしこの上野戦争での軍議の際に
大村益次郎は薩摩藩の梅江田信義との
口論では「貴殿は戦を知らない」と
公衆の面前で言い放ったそうです。
薩摩藩の西郷隆盛の仲介によって
その場はなんとか収まりますが、
梅江田信義は大村益次郎暗殺の
首謀者の一人ではないかと考えられている程
大村益次郎のことを恨んでいたと伝わります。
大村益次郎の最期
大村益次郎は
1869年12月7日(明治2年11月5日)に
亡くなります。享年45歳。
京都の旅館で教え子と食事をしていた際に
元長州藩士の一団に襲われ、
骨に達するほどの重傷を負ったそうです。
その時はなんとか一命を取り留めましたが
傷に菌が入ったことにより敗血症という病気になり、亡くなりました。
最後に
大村益次郎とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
大村益次郎について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。