江戸時代、265年という長い期間、
政治の実権を握っていた江戸幕府。
1867年に行われた大政奉還によって
1185年の鎌倉幕府以来700年近く続いた
武家政治は幕を下ろしました。
大政奉還とは何か?
どのように行われたのか?などなど
大政奉還について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
大政奉還とは?
大政奉還とは
1867年11月9日(慶応3年10月14日)に
江戸幕府15代将軍徳川慶喜が
政権を朝廷に返上することを申し入れて
朝廷が翌日それを受け入れた出来事です。
この出来事によって、1603年以来の
徳川家による江戸幕府は終了したのです。
大政奉還の行われた場所
大政奉還の行われた場所は
朝廷のお膝元である京都です。
まず、徳川慶喜は京都にある
二条城に所領10万石以上を持つ
諸藩の大名たちを呼び集めて
「大政奉還をする」と宣言をします。
大名たちはあまりの発言に面を食らい、
何も返事をできず退出したと言われています。
そして翌日15日に徳川慶喜を加えて
開催された朝議で朝廷から許可が下りました。
なぜ大政奉還を行ったのか?
当時、15代将軍の徳川慶喜は
薩摩藩や長州藩らが、藩の方針を
倒幕としていることを察知していました。
また1866年3月7日には
薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結んだことで
幕府は第二次長州征伐も失敗しています。
そのため徳川慶喜は、
このまま雄藩である長州藩と薩摩藩が
幕府を倒そうと戦争を始めてしまうと
徳川家が負けてしまうことや、国内が
内戦状態に陥ってしまうことを懸念します。
国内の混乱を懸念したのは、
徳川慶喜だけではありません。
商人であった坂本龍馬もその一人です。
坂本龍馬は後藤象二郎を通じて
土佐藩(高知県)に大政奉還の策を献上します。
彼は無血で徳川家に政権を
返上させるという計画をしたのです。
これをもとに前土佐藩主である
山内容堂が徳川慶喜に大政奉還を勧める
建白書を書き、徳川慶喜は
安芸藩(広島県)からも同じ勧告をされています。
徳川慶喜の大政奉還の狙いとは?
徳川慶喜が大政奉還に踏み切ったのは、
倒幕派の薩摩藩や長州藩から
「倒幕」という大義名分をなくすためでした。
それと同時に徳川家の権力と影響力を
残そうという狙いがあったと考えられます。
徳川幕府は、政治の実権を
265年という長い年月の間行っていました。
それまでまったく経験のない人間や組織が
「明日から行政や外交をやってください!」
と言われても、とても不可能ですよね。
朝廷ではまだ実務機関などもなく、
しばらくは徳川慶喜を含めた
幕府の中心人物が政治を行います。
徳川慶喜はこの状態を保って、
新しい政治体系のもとで改めて
実権を握る構想を秘めていたのです。
最後に
この記事では
大政奉還について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。