坂上田村麻呂(さかのうえ たむらまろ)は
奈良時代から平安時代までを生きた公卿です。
※公卿(くぎょう):日本の役人の最高幹部
誕生時期:758年
死亡時期:811年6月17日
坂上田村麻呂は
蝦夷征討に深く関わった人物で
京都「清水寺」の建設者でもあります。
坂上田村麻呂とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
坂上田村麻呂について
なるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
目次
坂上田村麻呂とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
- 坂上田村麻呂の誕生日
- 坂上田村麻呂、征夷大将軍に
- 坂上田村麻呂と清水寺
- 坂上田村麻呂と蝦夷(えぞ)
- 坂上田村麻呂と徳政相論
- 坂上田村麻呂と平城天皇
- 坂上田村麻呂と薬子の変
- 坂上田村麻呂の最期(死因など)
坂上田村麻呂の誕生日
坂上田村麻呂は758年に
坂上苅田麻呂の子どもとして誕生します。
※坂上田村麻呂の具体的な誕生日は不明です。
坂上田村麻呂の父「苅田麻呂」は
藤原仲麻呂の乱などで武功をたてた人物です。
坂上田村麻呂がまだ若い時から、
陸奥国では蝦夷との戦争が激化していて
陸奥国は苦戦を強いられていたそうです。
※陸奥国(むつのくに)の場所:東北地方
ちなみに「蝦夷(えぞ)」とは
日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、
北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称です。
※蝦夷の読み方は「えぞ」以外にも
以下の2つで呼ばれることがあります。
坂上田村麻呂、征夷大将軍に
770年、坂上田村麻呂は
陸奥鎮守府将軍となります。
780年には近衛将監、
787年近衛少将に、
791年に征東副使の一人に任命されます。
これが東北経営に
かかわった最初でした。
796年には、
出羽の按察使と陸奥守、
さらに鎮守府将軍も兼任します。
そして797年、桓武天皇により
坂上田村麻呂は征夷大将軍に任じられ
東北全般の行政を指揮する官職をすべて合わせました。
坂上田村麻呂と清水寺
坂上田村麻呂は798年に
清水寺を建設したとされています。
その時の坂上田村麻呂の年齢は
だいたい40歳くらいとなります。
坂上田村麻呂と蝦夷(えぞ)
801年、坂上田村麻呂は
4万の軍勢と5人の軍艦、
32人の軍曹を率いて平安京から
蝦夷(えぞ)最大の根拠地、
胆沢(岩手県)に出征します。
そして坂上田村麻呂は
見事に胆沢攻略に成功し、
従三位・近衛中将に任じられます。
また802年、
胆沢に胆沢城を築き
鎮守府をここに移します。
それと同時に坂上田村麻呂が降伏した
蝦夷の首領2人を都に連れていきます。
坂上田村麻呂は蝦夷の首領2人を
処刑することを最後まで反対し、
処刑しないよう嘆願したそうです。
しかし、願いは聞き入れてもらえず、
その後、蝦夷の首領2人は処刑されます。
坂上田村麻呂は蝦夷の民衆に優しく、
武力だけを重視している人ではなかったようです。
坂上田村麻呂と徳政相論
803年、坂上田村麻呂は
現在の岩手県に志波城を築きます。
坂上田村麻呂は804年に再び
征夷大将軍に任じられ
翌年には初の参議に命じられます。
そこで藤原緒嗣が
「軍事と造作が民の負担になっている」と
論じ、桓武天皇がこれを取り入れます。
そのため今回の蝦夷征夷は中止されます。
これは徳政相論と呼ばれています。
坂上田村麻呂は活躍の機会を失いますが
その後も征夷大将軍として務めます。
坂上田村麻呂と平城天皇
806年に桓武天皇が亡くなり、
平城天皇が即位します。
同年に坂上田村麻呂は中納言、
中衛大将も兼任します。
平城天皇の側近として重んじられ、
809年には正三位に叙せられました。
坂上田村麻呂と薬子の変
809年に平城上皇は
嵯峨天皇へ譲位します。
しかし平城上皇と嵯峨天皇は対立し
810年に薬子の変が起こります。
大納言に昇進した坂上田村麻呂は
美濃路を固めて上皇軍の鎮圧に努めます。
坂上田村麻呂の最期(死因など)
若い頃から活躍をした
坂上田村麻呂ですが、
811年、粟田の別宅で病死します。享年54歳。
坂上田村麻呂は、この世を去った後に
「従二位」という称号を与えられました。
最後に
この記事では
坂上田村麻呂とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
坂上田村麻呂について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で紹介しました。
この記事が少しでも
あなたのお役にたてばうれしいです。