江戸時代の幕末期には
様々な思想を抱えた志士たちがおり、
旅館に集まって今後の日本について
密談することが多かったようです。
そしてそれを弾圧するために
旅館に襲撃する事件も多々起こりました。
その中でも有名な寺田屋事件、
実は2度あったことはご存知ですか?
寺田屋事件とは何か?
事件の場所や関係人物などなど
寺田屋事件について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
寺田屋事件とは?
まず、寺田屋事件とは何かを解説します。
歴史上、寺田屋事件は
2回存在します。
これらの事件について、以下で解説します。
1862年の寺田屋事件(騒動)
1862年に起きた寺田屋事件は、
1866年の寺田屋事件と区別するために
寺田屋騒動とも呼ばれています。
寺田屋騒動とは
1862年5月21日(文久2年4月23日)に
起きた事件で、薩摩藩の尊王攘夷派が
島津久光によって弾圧されたものです。
島津久光は、当時の薩摩藩主である
島津忠義の父であり、事実上薩摩藩の
政治の実権を握っていました。
事件の始まりは、文久2年4月16日。
島津久光が薩摩藩の兵1000名を
率いて京都に上洛します。
このとき尊王派の志士たちは、これが
倒幕のきっかけになると信じていましたが
当時の島津久光に倒幕の意思は
まったくありませんでした。
亡き兄の島津斉彬が推進していた
公武合体派で朝廷や幕府、薩摩藩らが
国政を動かすことを目的としていたようです。
公武合体派であった島津久光は、
西郷隆盛や村田新八らを捕縛して
大阪から薩摩藩へ帰るよう命じています。
そして島津久光は、朝廷から
尊王派志士たちの粛清を命じられます。
この事実を知った尊王攘夷派で
薩摩藩士である有間新七(ありましんしち)らは
関白の九条尚忠と京都所司代の酒井忠義を
殺害する計画を企て、寺田屋に集結します。
この知らせを知った島津久光は激怒し、
大久保一蔵(利通)や奈良原喜左衛門を
派遣して説得を試みましたが、失敗。
ついに島津久光は、剣術に優れた者たちを
集めた鎮撫使(ちんぶし)を京都へ派遣したのです。
4月23日の夜、寺田屋で鎮撫使たちは
有間新七に面会をして議論しますが、
決着はつかず薩摩藩同士の激しい斬り合いに。
その結果、計画に加わった尊王派6名と
鎮撫使の1名の計7名が亡くなります。
この寺田屋騒動によって、
朝廷の島津久光に対する評価は大きく上がりました。
1866年の寺田屋事件
1866年3月9日(慶応2年1月23日)に
起きた寺田屋事件は、寺田屋遭難とも呼ばれています。
これは寺田屋の2階で寝ようとしていた
坂本龍馬を、伏見奉行である林肥後守忠交が
捕縛あるいは暗殺しようとした事件です。
坂本龍馬本人が家族にあてた手紙によると
坂本龍馬はピストルで応戦し、恋人の
お龍(おりょう)を連れて薩摩藩邸に逃げたとされています。
寺田屋事件の場所は?
「寺田屋」とはどこにあるのでしょうか?
寺田屋事件が起きた寺田屋は、
京都伏見区にあった宿屋です。
この宿屋は
頻繁に薩摩藩士が利用していたことから、
幕末に2度も襲撃にあう事件に巻き込まれたのです。
のちに鳥羽伏見の戦いで焼失しますが、
現在は、当時の敷地の西隣に再建された寺田屋が存在します。
最後に
この記事では
寺田屋事件についてなるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。
少しでも役に立てば幸いです。