島津斉彬の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】
結論からいいますと
島津斉彬の死因は不明です。
暗殺されたという説もありますが
江戸時代後半の流行り病「コレラ」が
島津斉彬の死因という病死説が有力です。
※コレラ:細菌性の感染症
- 島津斉彬の誕生日:1809年4月28日
- 島津斉彬の命日:1858年8月24日
※島津斉彬の最期(最後)の年齢は49歳
目次
島津斉彬はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
島津斉彬(しまづなりあきら)は
幕末期(江戸時代末期)の外様大名、薩摩藩第11代藩主です。
- 島津斉彬の誕生日:1809年4月28日
- 島津斉彬の命日:1858年8月24日
※島津斉彬の最期の年齢は49歳
薩摩藩の富国強兵に成功した人物であり、
西郷隆盛など幕末期に活躍する人物も育てました。
以下では、島津斉彬とはどんな人だったのか、何をした人かなど、島津斉彬の生涯(最初から最期まで)についてわかりやすく簡単な言葉で解説していきます。
島津斉彬の誕生日
島津斉彬(しまづ なりあきら)は
1809年4月28日(文化6年3月14日)に
江戸(現在の東京)にある薩摩藩の屋敷で
島津斉興(なりおき)の長男として誕生します。
島津斉彬とお由良騒動
島津斉彬は、曾祖父である
島津重豪(しげひで)の影響を受けて
蘭学など西洋の学問に興味を持ちます。
しかし、この西洋学好きが一つの原因で
異母弟である島津久光との家督相続を巡ったお由良騒動と呼ばれる紛争が起こりました。
島津斉彬の薩摩藩主時代【集成館事業】
1851年に父の島津斉興が隠居し、
島津斉彬が第11代薩摩藩主となります。
藩主になるとすぐに、島津斉彬は藩の軍事力を大きくする為の富国強兵に努めます。
当時の日本は、先進国である
欧米諸国に対する脅威が迫っていました。
そのため、島津斉彬は洋式軍艦の建造や
鉄製の大砲を作る為の反射炉や溶鉱炉の設置、
ガラスやガス灯、地雷や水雷の製造などの
新西洋技術を取り入れた事業を行います。
島津斉彬は、こういった本格的な
洋式工場の「集成館事業」を興したのです。
現在、私たちの生活で薩摩切子や芋焼酎などを楽しめるのは、島津斉彬のおかげと言えます。
※薩摩切子:幕末に薩摩藩で生まれたガラス細工
島津斉彬の藩主時代【人材登用】
島津斉彬は、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用しています。
彼らが明治維新を成し遂げて、
新しい日本を切り開くことができたのは
島津斉彬に本質を見通す優れた能力があったから。
島津斉彬は、当時の老中であった阿部正弘に、幕政改革の一環として公武合体と開国、それに伴う武力の準備を主張します。
島津斉彬の藩主時代【将軍継嗣問題】
当時の江戸幕府将軍であった徳川家定は病弱で跡継ぎがいなかったため、将軍継嗣問題が起こります。
島津斉彬は阿部正弘らと共に、徳川斉昭の子どもの一橋慶喜(徳川慶喜)を次期将軍に推した一橋派に。
一方、近江彦根藩主であった井伊直弼は、紀州藩主の徳川家茂(慶福)を次期将軍に推した南紀派として、一橋派と対立。
島津斉彬は、篤姫(あつひめ)を
徳川家定の正室として嫁がせたり、
公家を通じて一橋慶喜を支持する旨を
朝廷に懇願したりと尽力します。
しかし1857年に阿部正弘が亡くなり、一橋派は勢いを失います。
そして翌年には南紀派の井伊直弼が大老に就任します。
井伊直弼は大老の権力を利用して安政の大獄を開始し、14代将軍は徳川家茂となりました。
島津斉彬の最期(死因など)
将軍継嗣問題に敗れた島津斉彬は
抗議のため藩の兵5000人を率いて
京都へいくことを計画していました。
しかし、1858年8月16日に病で倒れます。
そして1858年8月24日に
島津斉彬は亡くなります。享年49歳。
島津斉彬の死因については
当時流行していたコレラという説が有力です。
島津斉彬の死因は不明です。
暗殺されたという説もありますが
江戸時代後半の流行り病「コレラ」が
島津斉彬の死因という病死説が有力です。
※コレラ:細菌性の感染症
- 島津斉彬の誕生日:1809年4月28日
- 島津斉彬の命日:1858年8月24日
※島津斉彬の最期(最後)の年齢は49歳