島津斉彬ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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島津斉彬の像
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島津斉彬 (シリーズ・実像に迫る11)

 

島津斉彬(しまづなりあきら)
幕末期(江戸時代末期)の外様大名、薩摩藩第11代藩主です。

誕生時期:1809年4月28日
死亡時期:1858年7月16日

 

薩摩藩富国強兵に成功した人物であり、
西郷隆盛など幕末期に活躍する人物も育てました。

 

 

この記事では
島津斉彬とはどんな人だったのか
何をした人かなどをわかりやすく簡単な言葉で解説していきます。

 

島津斉彬とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】

幕末・維新人物伝 島津斉彬 (コミック版日本の歴史)

 

島津斉彬の誕生日

島津斉彬は
1809年4月28日(文化6年3月14日)
江戸にある薩摩藩の屋敷で島津斉興(なりおき)長男として誕生します。

 

 

島津斉彬とお由良騒動

 

島津斉彬は、曾祖父である
島津重豪(しげひで)の影響を受けて
蘭学など西洋の学問に興味を持ちます。

しかし、この西洋学好きが一つの原因で
異母弟である島津久光との家督相続を巡ったお由良騒動と呼ばれる紛争が起こりました。

 

 

島津斉彬の薩摩藩主時代【集成館事業】

1851年に父の島津斉興が隠居し、
島津斉彬が第11代薩摩藩主となります。

藩主になるとすぐに、島津斉彬は藩の
軍事力を大きくする為の富国強兵に努めます。

当時の日本は、先進国である
欧米諸国に対する脅威が迫っていました。

そのため、島津斉彬は洋式軍艦の建造や
鉄製の大砲を作る為の反射炉溶鉱炉の設置、
ガラスやガス灯、地雷や水雷の製造などの
新西洋技術を取り入れた事業を行います。

島津斉彬は、こういった本格的な
洋式工場の「集成館事業」を興したのです。

現在、私たちの生活で
薩摩切子や芋焼酎などを楽しめるのは、島津斉彬のおかげと言えます。

 

 

島津斉彬の藩主時代【人材登用】

島津斉彬は、下士階級出身の
西郷隆盛大久保利通を登用しています。

 

彼らが明治維新を成し遂げて、
新しい日本を切り開くことができたのは
島津斉彬に本質を見通す優れた能力があったから。

 

 

島津斉彬は
当時の老中であった阿部正弘
幕政改革の一環として公武合体開国、それに伴う武力の準備を主張します。

 

 

島津斉彬の藩主時代【将軍継嗣問題】

また、当時の江戸幕府将軍であった
徳川家定は病弱で跡継ぎがいなかった為
将軍継嗣問題が起こります。

島津斉彬は阿部正弘らと共に
徳川斉昭の子どもの一橋慶喜(徳川慶喜)
次期将軍に推した一橋派に。

 

 

一方、近江彦根藩主であった井伊直弼は、
紀州藩主の徳川家茂(慶福)を次期将軍に
推した南紀派として、一橋派と対立。

 

島津斉彬は、篤姫(あつひめ)
徳川家定の正室として嫁がせたり、
公家を通じて一橋慶喜を支持する旨を
朝廷に懇願したりと尽力します。

 

しかし1857年に阿部正弘が亡くなり、
一橋派は勢いを失います。

そして翌年には南紀派の
井伊直弼が大老に就任します。

井伊直弼は大老の権力を利用して
安政の大獄を開始し、14代将軍は徳川家茂となりました。

 

 

島津斉彬の最期(死因など)

将軍継嗣問題に敗れた島津斉彬は、
抗議するために藩の兵5000人を率いて
京都へいくことを計画しますが
8月16日、病で倒れます。

そして1858年8月24日
島津斉彬は亡くなります。享年50歳。

死因は当時流行していたコレラという説が有力です。

 

最後に

島津斉彬公伝 (中公文庫)

 

この記事では
島津斉彬とはどんな人だったのか
何をした人かなどをわかりやすく簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

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