結論からいうと
豊臣秀吉の死因は諸説あるため不明です。
戦国時代(安土桃山時代)に
天下統一を果たした豊臣秀吉は、
日本でとても有名な武将の1人です。
そんな豊臣秀吉は1598年に
病死したといわれています。
- 豊臣秀吉の誕生日:1537年3月17日
- 豊臣秀吉の命日:1598年9月18日
※豊臣秀吉の最期の年齢は61歳
しかし
どんな病気が死因なのかは
正確にはわかっていません。
そして豊臣秀吉の死因については
「病死」の可能性だけでなくは
「暗殺」の可能性も残っています。
つまり、豊臣秀吉の死因は不明なのです。
そのため、時代背景や関係資料などから
豊臣秀吉の死因は病死と推測されています。
戦国時代を生きた豊臣秀吉の死因は、本当に病死なのでしょうか?
この記事では
豊臣秀吉の死因について
最新情報も含め徹底考察していきます。
豊臣秀吉はどんな最後(最期)だった?死因を徹底考察!
豊臣秀吉の死因については
昔からずっと色々な説があり
まったくわからない状況でした。
しかし近年、最新の研究より、
豊臣秀吉の最後の状況について
様々な候補が考えられています。
- 大腸がん・胃がん
- 脚気(かっけ)
- 性病(梅毒・腎虚)
- 暗殺
豊臣秀吉の死因はがん?
豊臣秀吉は人生の最後を迎える一年程前から
無意識に失禁したり、急激に衰弱したといわれています。
その後は食欲がなくなり、痩せたり、手足が痛がったりしたそうです。
その症状から豊臣秀吉の死因は
「大腸がん」もしくは「胃がん」
だったのではないかと考えられています。
豊臣秀吉の死因は脚気(かっけ)?
脚気(かっけ)とは、
日本では古く上層階級の
人たちが侵されている国民病です。
なぜ上層階級の人たちかというと
日本の主食である白米を食べることによって
ビタミンB1が欠乏し、引き起こされるからです。
当時はまともな副菜を取ることもなく、天下人であった豊臣秀吉は白米をたくさん食べていたこと考えられます。
豊臣秀吉の死因は性病?
実は、最新の研究により、
豊臣秀吉の本当の死因として
最も有力な説がこの性病です。
豊臣秀吉は歴史上
稀に見る”女好き”だった
ということが分かっています。
それが高じて梅毒や腎虚などの性病に
かかったのではないかと疑われています。
後に解説しますが、
ロドリゲスの記述からも、
豊臣秀吉の死因について
性病の可能性が有力となっているのです。
豊臣秀吉の死因は暗殺?
亡くなる前の豊臣秀吉の症状に下痢や腹痛などがあります。
これについては、ヒ素を使った暗殺説も考えられているのです。
イエスズ会の書には、キリスト教徒弾圧に反対していた前田利家が豊臣秀吉をヒ素によって殺そうとしたという記述があるそうです。
豊臣秀吉の死因についての史料がない?
天下を統一し日本を変えた豊臣秀吉の
最期(死因)がはっきりしないって不思議ですよね?
豊臣秀吉の最期に関する史料は
実は、残っていないのです。
考えられている主な理由は2つ。
- 徳川家康が破棄
- 豊臣秀吉の死因に興味なし
一説によれば、徳川家康が敵対していた
豊臣秀吉のイメージを良くしない為に
豊臣秀吉に関する史料を破棄したという説です。
もう一つは、
天下統一した覇者がいなくなったため
今後の日本はどうなってしまうのか?と、
全国各地の大名たちの関心は、
今後の日本の未来に移っていたため
豊臣秀吉の死因には興味がなかったという説です。
ロドリゲスの記述【豊臣秀吉の最後の様子について。】
唯一、晩年の豊臣秀吉について
当時の様子が書かれた資料は
キリスト宣教師のロドリゲスの資料です。
ロドリゲスは見舞った際の豊臣秀吉について
「干からびたかのように衰弱して、まるで
悪霊のようで人間とは思えない」
という記述を残しています。
豊臣秀吉の最期の年齢は61歳だったので
安土桃山時代ではとても長生きの方ですが、
それにしてもこの記述から読み取れるのは、
「豊臣秀吉の姿が異様であったこと」です。
最後に
この記事では
豊臣秀吉の死因について解説しました。
- 豊臣秀吉の誕生日:1537年3月17日
- 豊臣秀吉の命日:1598年9月18日
※豊臣秀吉の最期の年齢は61歳
まとめると
豊臣秀吉の死因の候補は4つ。
- がん (大腸がん・胃がん)
- 国民病 (脚気)
- 性病 (梅毒・腎虚)
- 暗殺
ロドリゲスの記述など
色々な要素を総合的に判断すると
暗殺よりも病死の可能性が高いです。
そしてその病死の中でも
豊臣秀吉の死因は性病だった可能性が高そうです。