前田利家ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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戦っている男の姿
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戦国人物伝 前田利家 (コミック版 日本の歴史 (36))

 

前田利家(まえだとしいえ)とは
戦国時代(室町時代後期)から
安土桃山時代までを生きた武将、戦国大名です。

誕生時期:1538年1月15日
死亡時期:1599年4月27日

 

 

豊臣政権の五大老の一人であり、
槍の名手であったことから
槍の又左(またざ)」と異名を持ちました。

 

 

前田利家とはどんな人だったのか
何をした人だったのか、などなど
前田利家について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。

 

 

前田利家ってどんな人?【生涯をざっくりわかりやすく解説】

奮闘前田利家―百万石の槍働き (歴史群像シリーズ戦国セレクション)

前田利家の誕生日

前田利家が誕生したのは
1539年1月15日(天文7年12月25日)
言われていますが、他にも1536年や
1537年であったという説も存在します。

 

尾張国海東郡(現・愛知県名古屋市)
荒子城主の前田利春四男です。

前田利家は、14歳の頃に
小姓として織田信長に仕えます。

 

若い頃の前田利家は、短期で喧嘩早く
派手な格好をした傾奇者(歌舞伎者)
言われるくらい目立っていたそうです。

その後、元服して(成人になって)
前田又左衞門利家と名乗り、
槍を使って数多くの戦で活躍して
槍の又左」「槍の又左衞門」と
呼ばれるようになります。

また、この頃に従妹である
まつ(芳春院)を正室(妻)に迎えて、長女の幸をもうけます。

 

 

前田利家、浪人に

その後の戦でも戦功を上げていた
前田利家ですが、1559年に織田信長が
寵愛していた雑役の拾阿弥(じゅうあみ)
言い争いを起こして、拾阿弥を斬殺してしまいます。

当初はこの罪だと成敗されてしまいますが
柴田勝家らのとりなしで出仕停止処分だけで済み
前田利家は浪人暮らしとなります。

 

 

しかし、
出仕停止を受けていたにも関わらず
許しを得たかった前田利家は、
織田信長に無断で桶狭間の戦いに参加して武功を立てます。

 

 

それでも許されなかったので、
森部の戦いでも無断で参加して武功を立てます。

今度は織田信長に戦功を認められて、
無事に許しを得ることができたのです。

 

また、前田利家が浪人中に
父の前田利春が亡くなって、
前田家の相続は長男の利久が継いでいました。

しかし、病弱で実子がいなかった為、
織田信長の命によって前田利家が家督を相続することとなります。

 

 

前田利家、越前国府中城の城主に

 

1570年、前田利家は姉川の戦い
春日井堤の戦いでも活躍をします。

 

さらに一条谷の戦いや長篠の戦いでも
鉄砲奉行として参戦しています。

 

1575年に前田利家は
越前国(現・福井県)府中城の城主となり
1581年に能登一国を与えられて
23万石を領有する大名となりました。

また前田利家は、
初代加賀藩主となります。

 

前田利家と金沢城

 

本能寺の変で織田信長が亡くなると、
清洲会議で羽柴秀吉(豊臣秀吉)柴田勝家が対立します。

 

1583年に起きた賤ヶ岳の戦いでは
当初、柴田勝家についていた前田利家ですが
裏切って豊臣秀吉に従い、豊臣秀吉側が勝利します。

 

豊臣秀吉から加賀国の領地を加増され、
前田利家は本拠地を加賀の金沢城に移します。

 

その後、佐々成政との戦いで勝利したことで
利家の領地は加賀、能登、越中に広がって
100万石の大名へと昇りつめるのです。

 

 

前田利家、五大老の一人に

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前田利家に対する豊臣秀吉の信頼は厚く
1597年に、豊臣秀吉の嫡男である
豊臣秀頼の守役に任じられます。

さらに、翌年には
五大老の一人にも選ばれます。

この頃、前田利家は
家督を長男の利長へ譲っています。

 

 

 

前田利家の最期(死因)

1599年4月27日(慶長4年閏3月3日)、
前田利家は病死します。享年62歳。

 

 

最後に

前田利家〈上〉 (光文社時代小説文庫)

 

この記事では
前田利家とはどんな人だったのか
何をした人だったのか、などなど
前田利家について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で紹介しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

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