楠木正成(くすのきまさしげ)は
鎌倉時代から室町時代初期までを生きた武将です。
誕生時期:1294年
死亡時期:1336年7月5日
後醍醐天皇に最後まで忠義を尽くし
鎌倉幕府討伐に大きく関係した人物です。
楠木正成とはどんな人だったのか
何をした人なのか?などなど
楠木正成について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
楠木正成ってどんな人??【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
楠木正成の誕生日
楠木正成は1294年(永仁2年)に
河内国(現・大阪府)で誕生します。
※楠木正成の具体的な誕生日は不明です。
楠木正成は
河内の土豪であったと言われていますが、
身分については御家人や悪党の説もあります。
※悪党とは、悪者という意味ではなくて
荘園領主や幕府に反抗した集団のことです。
いずれにしても当時活躍した
足利尊氏や新田義貞と比べれば、
あまり身分は高くなかったと考えられています。
はじめは北条高時の家臣で
1322年に摂津国の渡辺党を討ち、
紀伊国の湯浅氏を殺害、
南大和の越智氏を撃滅しています。
後醍醐天皇と楠木正成
鎌倉時代、鎌倉幕府が
鎌倉の地を拠点に政治をしていました。
※鎌倉の場所:現在の神奈川県
しかし鎌倉幕府は、
元寇という大事件をきっかけに、
権威を大きく失うことに。
※元寇(げんこう):モンゴル帝国が日本に侵攻した大事件
その流れで
幕府に政治を任せられないと、
倒幕を考えたのが後醍醐天皇です。
後醍醐天皇による鎌倉幕府の倒幕計画に
楠木正成は協力するようになります。
※これは豆知識ですが
室町時代の軍記物語「太平記」には
後醍醐天皇の夢の中で庭に南向きに
枝が伸びた木が現れたことから「楠」である
楠木正成を笠置山に呼び寄せたと書かれています。
楠木正成と鎌倉幕府の滅亡
1324年、後醍醐天皇はまず
側近の日野資朝らと一緒に倒幕を考えますが
幕府に倒幕計画がバレてしまい失敗に終わります。
その約7年後の1331年、
後醍醐天皇は再び倒幕を企画しますが
この計画もまた幕府にばれてしまいます。
倒幕計画がバレた後醍醐天皇は、
比叡山へ向かうと見せかけて
山城国の笠置山で倒幕を開始。
※山城国の場所:現在の京都府の南側
この時、楠木正成も下赤坂城に立て籠もって
奇襲をかけたり、敵に熱湯をかけて追い払ったりと
個性的な方法で幕府と戦い、鎌倉幕府を苦しめます。
※下赤坂城の場所:大阪府
後醍醐天皇はその後、島流しとなり
隠岐の島(現・島根半島)に流されます。
後醍醐天皇が島流しになっている間も、
楠木正成は倒幕に向けて戦を続けます。
当時の鎌倉幕府にとって
楠木正成ほど厄介な敵は
いなかったことでしょう。
楠木正成や護良親王らの
圧倒的な粘り強い軍事行動で
鎌倉幕府の軍は分裂を始めます。
関東の豪族「足利尊氏」や
新田義貞らが幕府にそむき、
ついに鎌倉幕府は滅亡しました。
楠木正成と建武の新政
鎌倉幕府の滅亡によって帰京した
後醍醐天皇は、建武の新政を開始します。
これは天皇を中心とした政治であり
武士たちはこの制度に不満を持ちます。
足利尊氏はついに挙兵しますが、
そこに楠木正成が立ちはだかります。
そして楠木正成は
足利尊氏率いる足利軍に勝利し、
足利尊氏を九州へ追放します。
しかし、足利尊氏の心が
挫けることはありませんでした。
1336年に勢力を回復して
足利尊氏は再び挙兵します。
楠木正成の最期
楠木正成は新田義貞の下で
湊川の戦いで足利尊氏と激突します。
しかし力の差は大きく、
楠木正成はこの戦いで負けてしまいます。
そして1336年7月4日に、
楠木正成は弟の楠木正季と一緒に自害し
人生の最期を迎えたとされています。
「太平記」では、
楠木正成を悪党的武将の典型として、
その怨念に満ちた凄絶な最期までが
生き生きと描かれています。
また、同記録には正成について
「智・仁・勇の三徳を備え、命を懸けて
善道を守るは古より今に至るまで
正成ほどの者は未だいない」と記されています。
最後に
この記事では
楠木正成とはどんな人だったのか
何をした人なのか?などなど
楠木正成についてなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。