長篠の戦い(ながしののたたかい)とは
安土桃山時代に行われた戦いです。
開戦時期:1575年6月28日
長篠の戦いでは
織田信長と徳川家康の連合軍と
武田勝頼の軍勢が戦いました。
この記事では
長篠の戦いとはどんな戦いだったのか
決戦の場所や真実をわかりやすく解説します。
長篠の戦いとは?【簡単にわかりやすく解説】
長篠の戦いを簡潔に説明します。
長篠の戦いとは
1575年6月29日(天正3年5月21日)に
三河国(現・愛知県)で行われた
織田信長と徳川家康の連合軍と
武田勝頼による戦いです。
3万8000の兵を率いる織田・徳川軍が
「鉄砲の三段撃ち」という戦法を用いて
1万5000の騎馬隊を誇る武田勝頼のに圧勝。
日本の歴史を大きく変えた歴史的な戦いといえます。
長篠の戦いの決戦の場所はどこ?
長篠の戦いが行われた決戦の場所は
現在の愛知県があった場所でした。
当時のその場所の名は設楽原(したらがはら)です。
※現在だと愛知県新城市(しんしろし)長篠という地名です。
長篠の戦いの決戦場所が設楽原だったため、
長篠の戦いという戦いの名前以外にも
長篠設楽原の戦いと呼ばれることもあります。
もともと長篠には長篠城という城があり、
現在も「長篠城址」として整備されています。
長篠の戦いの”真実”とは?
近年の研究や新しい史料などによって
長篠の戦いについて、以下のように
新しい真実が考えられてきています。
- 鉄砲三段撃ちではなかった?
- 騎馬隊は乗馬していなかった?
長篠の戦いの真実に近づくために
この2つの説を解説していきます。
鉄砲三段撃ちではなかった?【長篠の戦いの真実について】
「鉄砲三段撃ち」とは、
織田信長が思いついた戦法です。
具体的に解説すると
3000挺の鉄砲隊を1000挺ずつ3列に並べて
最前列の鉄砲隊が撃っている間に
2列目の兵隊が火縄銃に火をつけ、
3列目の兵隊が弾をこめるという戦法です。
しかし実は、「信長公記」には
鉄砲三段撃ちの記述はありません。
さらに、長篠の戦いが起きたのは梅雨の時期。
記録にも決戦の日は「雨だった」とありますが
設楽原という地は田んぼが多く足場の悪い場所。
そのため、
三段に構えて迅速に兵隊が動いて
雨の中で火縄銃に火をつけるというのは
不可能という説が出てきたのです。
騎馬隊は騎乗していなかった?【長篠の戦いの真実について】
圧倒的な強さを誇るといわれていた
武田勝頼率いる武田軍の「騎馬隊」。
しかしじつは、この騎馬隊は
騎乗していなかったと考えられています。
それは、当時の馬は乗馬ではなく
農耕馬だったと考えられているからです。
当時の記録に「武田の騎馬隊に注意」
という記述があるので、騎馬隊の存在は確か。
戦国時代では
騎乗したまま敵と戦うのではなく、
馬から降りて戦うのが一般的だとか。
つまり、位の高い大名だけは
馬に乗ったまま指揮をしたかもしれませんが、
騎馬隊は馬から降りて戦っていたのではないかと考えられています。
当時の「長篠の戦いの様子」について
イメージが大きく変わる真実の1つですね。
最後に
この記事では
長篠の戦いとはどんな戦いだったのか
決戦の場所や長篠の戦いの真実なども
なるべくわかりやすく解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。