日本において大きな歴史の
転換期となった明治維新。
日本の近代化に向けて、大きな
政治事件へとつながった征韓論(せいかんろん)。
なぜ征韓論は、そこまで
明治時代の政治に影響を与えたのでしょうか?
征韓論とは何か?
征韓論の意味や政変などなど
征韓論について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
征韓論とは?
征韓論とは、明治初期に
明治政府内部で唱えられた政策の一つです。
政策の内容は
朝鮮に出兵して朝鮮を征服して
政治体制の変革を迫ろうとした考えです。
この征韓論を主張したのは、
主に次の人物です。
しかし、慎重派であった大久保利通や
岩倉具視らが反対し、征韓論は敗れます。
このことによって、西郷隆盛をはじめ
当時の政府首脳である参議の半数と軍人、
官僚の約600人が職を辞める一大政変となります。
これは、
明治六年政変(征韓論政変)と
呼ばれています。
征韓論と征韓論政変の流れ
まず明治新政府樹立後に
朝鮮は日本との国交を拒絶します。
理由は、日本からの外交文書が
幕府時代に長年使われていた形式と
異なっていたからだそうです。
さらに1873(明治6)年5月、朝鮮が釜山(ぷさん)に
あった日本側の滞在用施設の門の前に
日本を侮辱した書を掲示した
という報告が伝わります。
そこで参議の板垣退助らは、
朝鮮へ出兵する征韓論を唱えます。
一方の西郷隆盛は、出兵には反対で
自らを大使として派遣するように求めます。
この意見に板垣退助らも賛成をし、
いったんは西郷隆盛の朝鮮派遣が決定します。
しかし、このとき
岩倉使節団が海外視察をしていた為
大久保利通や木戸孝允が不在の状態でした。
この征韓論は重大な国策であるので
岩倉使節団の帰国を待つこととします。
その結果、9月に日本に帰国した
岩倉具視らに反対されてしまいます。
そして閣議で正式決定しながらも、
西郷隆盛の朝鮮派遣が中止される
という異常事態となったのです。
ちなみに、征韓論に反対したのは
主に以下の人物です。
岩倉使節団として欧米諸国を
視察してきた彼らは、欧米と日本との
国力の差を目の当たりにしました。
今の日本は、国外政策よりも
まず国内政策を優先すべきだと考えたのです。
そのため、朝鮮への出兵は時期尚早だと訴えます。
しかし、正式に決定した西郷隆盛の
朝鮮派遣までも取り消されてしまう結果に
征韓論者の政治家たちは憤慨します。
西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らは
明治政府に、すぐさま辞表を提出します。
大きな影響力を持った彼らの辞任は、
約600人もの官僚や軍人もが辞職する事態に陥ったのです。
明治政府から離脱した彼らは
のちに全国各地で士族の反乱に関わっていくこととなりました。
最後に
この記事では
征韓論の意味や政変などなど
征韓論についてなるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。