大隈重信の死因とは?暗殺?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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早稲田大学にある大隈重信の像
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結論からいいますと
大隈重信の死因は病死です。
※死因となった病名は諸説あり不明

  • 大隈重信の誕生日:1838年3月11日
  • 大隈重信の命日:1922年1月10日

※大隈重信の最期(最後)の年齢は83歳

大隈重信は死因を暗殺という人もいますが、年齢から考察してみても「大隈重信の死因は病気」の可能性が高いです💡

柴犬

 

大隈重信は死因は暗殺ではなく病死です。
なぜ「大隈重信の死因は暗殺だった」と
勘違いしてしまう人がいるのかというと
過去に暗殺未遂事件があったからです。

大隈重信の暗殺未遂事件は、政治的な恨みが原因で起こりました。

柴犬

1889年10月18日の16時頃に
大隈重信の馬車に爆弾が投げられ
大隈重信は右足を負傷しました。

その後、すぐに手術されましたが
傷は深く、右足を切断することに。

この事件は、大隈重信暗殺未遂事件として有名です。

 

しかし大隈重信は83歳まで生き続けて
最期(最後)は病気でこの世を去りました。

つまり大隈重信の死因は
暗殺ではなく病死です。

ちなみに板垣退助も暗殺されそうになりましたが生き続けて、80歳以上まで生きました。

柴犬

 

 

大隈重信はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

大隈重信 (西日本人物誌)

大隈重信(おおくましげのぶ)江戸時代後期に誕生し、大正時代まで生きた佐賀藩士、政治家です。

  • 大隈重信の誕生日:1838年3月11日
  • 大隈重信の命日:1922年1月10日

※大隈重信の最期(最後)の年齢は83歳

 

大隈重信は何した人なのか?
どんな人だったのか?などなど
大隈重信の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

大隈重信の死因考察にもぜひお役立てください💡

柴犬

大隈重信の誕生日

大隈重信(おおくま しげのぶ)は
1838年3月11日(天保9年2月16日)
佐賀城下(現在の佐賀県水ヶ江)
佐賀藩士の大隈重保の長男として誕生。

 

大隈重信は7歳で藩校の弘道館に通いますが、
武士としての心得を書いた「葉隠(はがくれ)」に
基づく教育方針に反発し、退学処分に。

その後は国学や蘭学などを学びます。

 

大隈重信と尊王攘夷運動

大隈重信は佐賀藩主の鍋島直正にオランダ憲法の講義をして、その活躍を認められます。

 

その後、大隈重信は鍋島直正に討幕運動に参加するように訴えますが、うまくいなかったため脱藩します。

尊王攘夷志士として倒幕運動に参加します。

 

大隈重信と外国事務局判事

明治維新後の大隈重信は市政府の役人として、外国事務局判事となります。

 

キリスト教迫害事件に
イギリス公使のパークスが抗議しますが、
これに一歩も引かずに聞き入れなかったことで
大隈重信の名が国民に知れ渡ります。

 

大隈重信の活躍

大隈重信は1870年、参議となります。

大蔵省事務総裁、大蔵卿に就任し
征韓論からの明治六年の政変後は
財政の責任者として大久保利通を補佐。

 

大隈重信は太陰暦を太陽暦に変えて
地租改正秩禄処分殖産興業などを推進。

 

大隈重信と明治十四年の政変

1881(明治14)年、板垣退助による
自由民権運動の高まりに合わせて
民主主義をもとに国会開設を訴えます。

 

しかし参議の中で国会開設に賛成したのは
大隈重信だけで、伊藤博文らと対立します。

 

さらに開拓使官有物払い下げ問題が生じ、大隈重信は失脚します。

これは明治十四年の政変と呼ばれています。

 

大隈重信と早稲田大学

失脚後の翌年に
大隈重信は立憲改進党を結成し
さらに早稲田大学の前身となる
東京専門学校を創立します。

 

かつて対立していた伊藤博文ですが、
大隈重信の才能を評価していました。

そのため1888年から第一次伊藤、
黒田両内閣外務大臣として条約改正に関与。

 

大隈重信暗殺未遂事件について。犯人の名前も紹介

1889年10月18日の16時頃に
大隈重信暗殺未遂事件が起きました。

大隈重信の馬車に爆弾が投げられ
大隈重信は右足を負傷しています。

その後、病院で手術がされましたが
傷は重く右足膝上を切断することに。

この大隈重信暗殺未遂事件の犯人の名前は来島恒喜(くるしま つねき)です。

柴犬

 

大隈重信と内閣総理大臣

1896年、第2次松方内閣の
外務大臣兼農商務大臣を務めます。

1898年には憲政党を組織し、
大隈重信は内閣総理大臣となります。

薩長以外から初の内閣総理大臣となり、
日本初の政党内閣を作ったのです。

 

大隈重信は政界を引退し、1907年に早稲田大学の学長となります。

1914年、政界に復帰し、再び首相となっています。

 

大隈重信の最期

大隈重信は最期(最後)、病気で体調を崩して
1922(大正11)年1月10日に亡くなります。享年83歳。

政治家として奮闘するだけでなく
教育者としても早稲田大学を創設し、
日本の未来を担う若者を育成することに尽力しました。

 

大隈重信の死因は病死です。
※死因となった病名は諸説あり不明

  • 大隈重信の誕生日:1838年3月11日
  • 大隈重信の命日:1922年1月10日

※大隈重信の最期(最後)の年齢は83歳

大隈重信は死因を暗殺という人もいますが、年齢から考察してみても「大隈重信の死因は病気」の可能性が高いです💡

柴犬

 

 

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