江戸時代に江戸幕府の大老であった井伊直弼によって開始された”安政の大獄”。
※開始時期:1858年
かの有名な吉田松陰なども
安政の大獄によって処刑されてしまいます。
安政の大獄とは何か?
どんな出来事だったのか?などなど
安政の大獄について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
安政の大獄とは?
安政の大獄(あんせいのたいごく)とは
安政5~6(1858~1859)年に
江戸幕府の大老である井伊直弼が行った弾圧事件です。
井伊直弼は、天皇の許しを得ないまま
日米修好通商条約を結んだり、勝手に
14代将軍を徳川家茂に定めたりします。
これらの井伊直弼のやり方に
反対する人たちは当時たくさんいました。
しかし井伊直弼は、反対をする人々
(雄藩大名、公卿、幕臣、諸藩士ら)を
弾圧する行動を開始します。
この弾圧によって
多数の逮捕者や処刑者が出ました。
そして1860年に起きた
井伊直弼が暗殺される事件
桜田門外の変のきっかけとなりました。
安政の大獄の経緯
1853年、ペリー率いる黒船が来航、
日本国内が大きく動き始めます。
さらに同年、江戸幕府
12代将軍徳川家慶が亡くなります。
13代将軍である徳川家定は病弱で
跡継ぎを作る見込みがなく、次期将軍を
誰にするかという問題も起こります。
この将軍継嗣問題では、
評判の良い徳川慶喜(一橋慶喜)を
推す一橋派と、血統を重んじた
徳川慶福(家茂)を推す南紀派で
激しく対立することとなります。
開国問題と、将軍継嗣問題で
日本国内が揺れる中、アメリカの領事
ハリスが貿易の条約を締結するように
幕府に圧力をかけてきたのです。
1858年、将軍継嗣問題で
「南紀派」の一人であった井伊直弼が
幕府最高職の大老に就任します。
そして井伊直弼は、
本来は天皇の許可が必要である
「日米修好通商条約」を無断で締結。
これに対して開国を反対していた
攘夷派の人々は幕府に猛抗議をします。
そして井伊直弼は、反対派の
尊王攘夷派の藩士、家老だけでなく
大名までも処罰の対象とし、安政の大獄を行ったのです。
安政の大獄によって処罰された人物
安政の大獄によって
100人以上が処罰されました。
以下の有名な人々が処罰されます。
- 吉田松陰(処刑)
- 橋本佐内(処刑)
- 梅田雲兵(獄死)
長州藩毛利敬親家臣だった吉田松陰は、
自ら老中暗殺計画を自白してしまい、斬罪になったそうです。
福井藩松平春嶽の家臣である
橋本佐内は、将軍継嗣問題に
介入したことを問われて26歳で斬首されます。
■謹慎、隠居
- 徳川慶喜(一橋徳川家当主)
- 徳川斉昭(前水戸藩主)
- 松平春嶽(福井藩主)
- 徳川義篤(水戸藩主)
- 徳川慶勝(尾張藩主)
- 伊達宗城(宇和島藩主)
- 山内容堂(土佐藩主)
- 堀田正睦(佐倉藩主)
- 太田資始(前掛川藩主)
- 松平忠固(上田藩主)
- 本郷泰固(川成島藩主)
安政の大獄によって、多くの諸藩主や家老、藩士などが処罰の対象となりました。
最後に
この記事では
江戸時代の1858年に起きた
安政の大獄について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。