後白河天皇の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

結論からいいますと
後白河天皇の死因は病死と考えられています。

  • 後白河天皇の誕生日:1127年10月18日
  • 後白河天皇の命日:1192年4月26日

※後白河天皇の最期の年齢は64歳

 

後白河天皇の最期の年齢は64歳と平安時代ではかなり高齢にあたるので、死因は暗殺ではなく病気であった可能性は高いです💡

 

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目次

後白河天皇はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

後白河天皇—日本第一の大天狗 (ミネルヴァ日本評伝選)

後白河天皇(ごしらかわてんのう)
平安時代末期から鎌倉時代初期までを生きた
日本の第77代天皇です。

  • 後白河天皇の誕生日:1127年10月18日
  • 後白河天皇の命日:1192年4月26日

※後白河天皇の最後の年齢は64歳

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後白河天皇は天皇を辞めた後、
後白河上皇となり、その後、
後白河法皇となります。

 

後白河天皇の生涯について
以下でなるべく簡単な言葉で
わかりやすく紹介していきます。

  • 後白河天皇の誕生日
  • そもそも、院政とは何か?
  • 後白河天皇は鳥羽上皇からの評価が低かった?
  • 二条天皇の”つなぎ”として、後白河天皇が即位
  • 後白河天皇と保元の乱
  • 後白河上皇と平治の乱
  • 後白河法皇、仏教の力に頼る
  • 後白河法皇の最期

後白河天皇(雅仁親王)の誕生日

後白河天皇は
1127年10月18日(大治2年9月11日)に、
鳥羽上皇と藤原璋子(しょうし)
子ども(第四皇子)として生まれます。

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後白河天皇の名前は
雅仁親王(まさひとしんのう)です。

 

平安時代末期のこの頃は、
後白河天皇の曾祖父である
「白河法皇」が亡くなり、
後白河天皇の父「鳥羽上皇」による
院政(いんせい)が開始されていました。

そもそも、院政とは何か?

そもそも院政って何?
と思う方も多いかと思います。

簡単に説明すると
天皇が行う政治ではなく
上皇や法皇が天皇に代わって
院中で行う政治のことを「院政」といいます。

あまり深く考えずに
院政=政治
という理解で問題ありません。

ちなみに上皇とは、
生前中に王位を継承者に譲った前の天皇のこと。
法皇とは、仏門にはいった上皇のことを指します。

簡単にわかりやすく解説すると
天皇➜上皇➜法皇
のような順で変化するイメージです。

つまり

  • 後白河天皇
  • 後白河上皇
  • 後白河法皇

これら全員同じ人ということです。

 

後白河天皇は父親(鳥羽上皇)からの評価が低かった?

当時、院政によって
後白河天皇の父親である
鳥羽上皇が権力を持っていました。

崇徳帝
を押しのけて、
近衛天皇が天皇に即位します。

皇位継承に無縁な
雅仁親王(のちの後白河天皇)は
遊びに明け暮れていたそうです。

これを見ていた鳥羽上皇は
「雅仁親王は天皇には向いていない」と考え、
雅仁親王の子どもの守仁親王へ
次期天皇の位を譲位しようと考えていたそうです。

 

二条天皇の”つなぎ”として、後白河天皇が即位

二条城行幸図屏風の世界―天皇と将軍華麗なるパレード

1155年に近衛天皇が亡くなります。

 

亡くなった近衛天皇には子どもがおらず
守仁親王(後の二条天皇)はまだ12歳ほど。

守仁親王が成人するまでのつなぎ合わせとして、
鳥羽法皇は、後白河天皇を即位させることに決めます。

 

後白河天皇と保元の乱

待賢門院璋子―保元の乱前夜

1156年に鳥羽法皇が亡くなります。

ここで天皇を退いていた崇徳上皇は
再び朝廷の実権を握ろうとし、
藤原頼長らと手を組んで保元の乱を起こします。

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これに対して
後白河天皇の側近であった
藤原通憲(信西)や藤原忠通らが
平清盛源義朝といった武士を集めて対抗。

 

保元の乱の結果は
後白河天皇方の勝利に終わり
崇徳上皇は讃岐へ流されます。
※讃岐(さぬき)の場所:現在の香川県

 

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後白河上皇と平治の乱

平治物語 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

保元の乱で勝利した後白河天皇ですが、
実質、政権を握っていたのは藤原通憲(信西)。

しかし1158年、信西と美福門院による
「仏と仏との評定」と呼ばれる協議がなされ、
後白河天皇は二条天皇に天皇を譲位します。

そしてこの流れで
後白河天皇は天皇ではなくなり
後白河上皇(元天皇)として
院政を開始し二条天皇と対立。

この対立が
平治の乱の始まりのきっかけです。

そして1159年に
平治の乱が起こります。

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源義朝が三条殿を襲撃し、
後白河上皇は幽閉されます。

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この平治の乱によって
藤原通憲(信西)も殺されたため、
後白河上皇による院政は壊滅します。

 

しかし1165年、二条天皇が退位し
2歳だった六条天皇が即位すると、
後白河上皇による本格的な院政が開始。

後白河上皇は1169年に出家し、
後白河法皇となります。

その後、高倉天皇、安徳天皇、
後鳥羽法皇と
4朝にわたって政治を行います。

 

途中で権力のあった平清盛
院政を中断されたこともありましたが、
後白河法皇は30年以上も院政を行いました。

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後白河法皇、仏教の力に頼る

後白河法皇は仏教を保護し、
造寺や造仏に造ったことでも有名です。

後白河法皇はだんだん年をとり
おじいちゃんになった時期に
東大寺大仏再建にも関わっています。

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豆知識ですが、後白河法皇は
和歌が苦手だったそうです。

ただし、今様(いまよう)という
流行歌は好きだったようで
梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」をつくり、
文化面でもその名を残しています。

梁塵秘抄 (ちくま学芸文庫)

 

後白河法皇の最期

1192年4月26日に
後白河法皇は京都の六条殿にて
この世を去ったとされています。享年64歳。

後白河天皇の死因は
病死と考えられています。

  • 後白河天皇の誕生日:1127年10月18日
  • 後白河天皇の命日:1192年4月26日

※後白河天皇の最期の年齢は64歳

後白河天皇の最期の年齢は64歳と平安時代ではかなり高齢にあたるので、死因は暗殺ではなく病気であった可能性は高いです💡

 

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