豊臣秀吉といえば
安土桃山時代を生きた武将で、
日本で知らない人はおそらくいない
そんな有名な歴史上の人物です。
そんな豊臣秀吉の性格ですが、
「史上最悪の極悪人だったのでは?」
という説があるのです。
そこで、この記事では
豊臣秀吉はどんな性格だったのか?
性格が悪かったのか?良かったのか?
豊臣秀吉の性格について
わかりやすく徹底分析していきます。
川柳から読み解く豊臣秀吉の性格
豊臣秀吉の性格を示すものとして、
日本では有名な川柳があります。
”鳴かぬなら、鳴かせてみせよう ホトトギス”
これは「ホトトギス」が鳴かないときに
どんな対応を取るのか、つまり
思い通りの結果が出せないときに、
どのような行動をするかを表現しています。
ここに、豊臣秀吉の性格を
理解するヒントがあります。
豊臣秀吉の場合だと、
作戦を練って自分の力で
何が何でも結果を出そうとする性格が
この川柳で表現されています。
時代の変化から読み解く豊臣秀吉の性格
豊臣秀吉の性格を考える際
時代による変化についても
考慮する必要があります。
なぜなら豊臣秀吉については
天下統一した後とする前では
日々の環境が大きく違うため
性格も変化する可能性があるからです。
そして実際に
「天下統一をしてから
豊臣秀吉の性格は悪くなった」
という情報もたくさんあります。
以下の2つの時代にわけて
豊臣秀吉の性格を分析していきます。
- 百姓から武将へ昇りつめた豊臣秀吉の性格
- 天下統一後の豊臣秀吉の性格
百姓から武将へ昇りつめた豊臣秀吉の性格
豊臣秀吉は百姓の生まれですが
足軽として織田信長に従うようになり
そこから日本のトップにまで昇りつめた人物です。
若い頃の豊臣秀吉は、世渡り上手で
頭が良くてキレ者であったと言われています。
冬の寒い朝、豊臣秀吉は
織田信長に目をかけてもらうために、
織田信長の草履を自らの懐に入れて温めてあげた
というエピソードはとても有名です。
また、豊臣秀吉は
女遊びが激しかった
というお話も有名です。
こういったエピソードからも
豊臣秀吉の性格が少し想像できるかと思います。
ちなみに
豊臣秀吉の死因をご存知ですか?
実は、豊臣秀吉の死因と
豊臣秀吉の女好きの性格が
大きく関係している可能性があります。
なぜなら、豊臣秀吉の死因は
性病の可能性が高いからです。
↓
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天下統一後の豊臣秀吉の性格
「豊臣秀吉は性格が悪い」
といわれるエピソードが多いのは、
天下統一を果たしてからのこと。
豊臣秀吉が天下統一したのは53歳の時で
加齢に伴う性格の変化が考えられています。
それだけではなく
天下統一した翌年には
淀殿との間に生まれた子である鶴松と
弟の豊臣秀長が病死してしまいます。
この度重なる身内の不幸も
豊臣秀吉の性格を変えた要因といわれています。
わが子の死の辛さは当然のことですが
豊臣秀長は、豊臣秀吉の調整役とされており
豊臣秀長の死も豊臣政権の崩壊につながっていると言えます。
では、豊臣秀吉は
どんな性格になってしまったのでしょうか?
- 冷酷残虐な性格
- 冷静な判断が欠如
冷酷残虐な性格【天下統一後の豊臣秀吉の性格】
若い頃の豊臣秀吉は、人殺しが嫌いで
殺すのを極力避けてきた人物でした。
しかし、晩年の豊臣秀吉は
甥の豊臣秀次に切腹を命じています。
さらに豊臣秀次の家族ら39人を処刑、
中には生まれたばかりの子どももいました。
豊臣秀次の家系は
根絶やしにされてしまいました。
このような物語は
豊臣秀吉の性格が冷酷残虐であった可能性を示します。
冷静な判断が欠如【天下統一後の豊臣秀吉の性格】
以前の豊臣秀吉は、
家臣の意見を聞いていましたが
晩年の豊臣秀吉は、
周りの反対を押し切った行動をします。
豊臣秀吉の最大の失政は
2度に渡る朝鮮出兵です。
豊臣秀吉の家臣たちも反対をしますが、
豊臣秀吉は意見を聞くこともなく強行突破します。
しかし見たこともない外国での戦いは
うまくいかず、食糧も不足していき、
2度とも失敗し撤退しています。
この朝鮮出兵によって、
大きな兵役を課せられた大名たちは疲弊し
家臣の分裂や内乱を招き、
豊臣政権の基盤を危ぶむ結果となりました。
もし豊臣秀吉が冷静な判断をして
朝鮮出兵を行っていなければ、
歴史は変わっていたかもしれません。
最後に
この記事では
豊臣秀吉の性格は良かったのか?
豊臣秀吉は性格が悪くなったのか?など、
豊臣秀吉の性格について徹底分析しました。
簡単にざっくりまとめると
天下統一する前の豊臣秀吉の性格は良く
天下統一した後の豊臣秀吉の性格は悪くなった。
という感じかと思います。