豊臣秀長ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
豊臣秀長(とよとみ ひでなが)は
戦国時代(室町時代後期)に誕生し
安土桃山時代までを生きた武将、大名です。
- 豊臣秀長の誕生時期:1540年4月8日
- 豊臣秀長の死亡時期:1591年2月15日
豊臣秀吉の弟であり
豊臣政権の安定のために多くの
活躍をしていたことで知られています。
また、和歌山城の城主でもあります。
豊臣秀長はどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
豊臣秀長について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
目次
豊臣秀長とは?【生涯をわかりやすく簡単な言葉で解説】
- 豊臣秀長の誕生日
- 豊臣秀長と豊臣秀吉
- 豊臣秀長と豊臣政権
- 紀州討伐
- 豊臣秀長、大和大納言に
- 豊臣秀長の晩年
豊臣秀長の誕生日
1540年4月8日尾張国(現・愛知県)
豊臣秀長は豊臣秀吉の異父弟で
父・竹阿弥と母・沖の子として生まれます。
若い頃は小一郎と名乗り、
兄の豊臣秀吉が士官した際は
木下小一郎長秀と名乗ります。
豊臣秀長は豊臣秀吉の家来になる前は
尾張国中村で農民として過ごしていました。
温和な性格で、家族や村人に
愛されて育ったそうです。
この穏やかな性格が、後に衆望を集め、
豊臣秀吉の補佐も優秀にできたのだと考えられます。
豊臣秀長と豊臣秀吉
1559年頃、秀吉から依頼を受け、
豊臣秀長は武士となり、秀吉に仕えます。
1573年、豊臣秀吉は
浅井氏を滅ぼした功績で長浜城の城主となり、
豊臣秀長が城の留守役を務めます。
さらに1574年、豊臣秀吉が
越前一向一揆のことで手一杯になった為
豊臣秀吉の代わりに豊臣秀長が
長島一向一揆の討伐に出陣します。
翌年、豊臣秀長は羽柴の名字を与えられます。
1577年以降、豊臣秀長は
秀吉の中国征伐に従って頭角をあらわします。
豊臣秀長と豊臣政権
本能寺の変の後も、
豊臣秀長は豊臣秀吉の片腕として
山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、
小牧・長久手の戦いに従軍します。
山崎の戦いでは
黒田孝高とともに天王山の守備にあたり、
小牧・長久手の戦いにおいては
秀吉の名代として豊臣秀長が
織田信雄と講和交渉を行います。
美濃守に任官し、播磨・但馬の
2か国を拝領して姫路城を居城にします。
紀州討伐
1585年、紀州討伐では
秀次と共に、豊臣秀長は秀吉の副将に任命されます。
紀州制圧後、秀吉から功績として
紀伊・和泉などの約64万石余の所領を与えられます。
豊臣秀長、大和大納言に
同年6月、四国攻めでは
病気で出陣できない秀吉に代わって
豊臣秀長が10万を超える軍勢の総大将に任じられます。
厳しい戦いでしたが、
長宗我部氏を降した功績を賞され、
播磨国・但馬に大和国を加増されて
合計100万石で郡山城に入ります。
この頃、豊臣の本姓を与えられます。
国を治めつつ、豊臣秀長は
大和の陶器や赤膚焼を開窯するなど
広い政策を行いました。
そして従二位、大納言の官位を得て
大和大納言と称されます。
豊臣秀長の晩年
1586年頃から
体調が崩れやすくなったと思われ、
数度温泉へ訪れる記録が残っています。
しかし状態は良くならず、
小田原討伐には参加できませんでした。
また、豊臣秀次も
豊臣秀長の病気回復の祈願のために
談山神社に訪れており、
両者の関係も良かったと思われます。
しかし平癒祈願のかいなく
1591年2月15日、豊臣秀長は52歳で亡くなります。
豊臣秀長の死が豊臣政権の没落の理由だったともいわれています。
最後に
豊臣秀長とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
豊臣秀長について
わかりやすく簡単な言葉で紹介しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。