弘前城は、天守や桜、濠の美しさで知られる城です。しかし、弘前公園を歩く楽しみは、目に映る景色だけではありません。
園内には、春の弘前を詠んだ短歌や、城を守り継ぐ時間を映した俳句、そして郷土の先人や歴史の記憶を刻んだ石碑が残されています。
花の下に立つ石碑は、ただの記念物ではありません。
城下町が積み重ねてきた時間を、静かに語るもう一つの案内板です。
ここでは、弘前城に関係する短歌・俳句と、弘前公園で見ておきたい代表的な石碑を紹介します。
弘前城に関係する短歌
弘前城と短歌のつながりを感じるなら、弘前公園に建つ宇都野研の歌碑を訪ねるのがおすすめです。
宇都野研は愛知県出身の医師・歌人で、弘前公園には昭和33年に歌碑が建立されています。
碑に刻まれているのは、桜が舞い散る弘前の春を、夢の中の景色のように描いた一首です。
宇都野研歌碑に刻まれた短歌
行く道の空にさくらのちりみだれ
覚めて見る夢の如きひととき
満開の桜は、見る人の視線を上へ導きます。一方で、散り始めた桜は空だけでなく、足元や濠の水面まで染めていきます。
この短歌が描くのは、花を眺める一場面ではありません。歩く道、空を埋める花びら、そして現実の輪郭が少しだけ遠のくような感覚まで、一首の中に閉じ込めています。
弘前城の桜は、咲き誇る瞬間だけでなく、風にほどけて舞い始める頃にも深い美しさがあります。花びらが濠へ流れ、石垣の前を横切る季節にこの歌碑を訪れると、目の前の景色と歌の言葉が自然に重なります。
短歌を読みながら弘前城を歩く楽しみ
短歌は、景色の中にある感情や時間の流れを、三十一音で丁寧にすくい上げる表現です。
弘前城では、桜だけでなく、石垣、濠、水面、城門、遠くに広がる空にも目を向けてみてください。城は変わらずそこにありながら、季節によってまったく異なる表情を見せます。
春には花が城郭を包み、夏には木々の緑が濠を深く染め、秋には紅葉が石垣の陰影を際立たせます。冬には雪が景色の音を吸い込み、城はさらに静かな輪郭を見せます。
弘前城を歩きながら短歌に触れると、観光地として見ていた景色に、文学の余韻が加わります。
弘前城に関係する俳句
弘前城を詠んだ俳句として印象的なのが、木村秋湖による次の一句です。
曳家待つ弘前城や花吹雪
曳家待つ弘前城や花吹雪
この句には、弘前城天守の曳家と、春の花吹雪が重ねられています。
弘前城天守は、石垣修理に伴って曳家が行われたことで広く知られています。長い年月を経た城を守り継ぐため、人の手によって大きく動かされる天守。その一方で、空からは変わらず桜が舞い落ちます。
城を未来へ残すための工事と、一年のうち短い期間だけ訪れる花の季節。この一句は、動かないはずの城が動く特別な時間と、散りゆく桜の儚さを鮮やかに切り取っています。
弘前城は俳句にしたくなる景色が多い
俳句は、目の前に現れた一瞬の景色を、短い言葉で際立たせる表現です。
弘前城には、俳句の題材になる景色が数多くあります。春なら花吹雪や花筏、夏なら深緑の濠、秋なら城門を彩る紅葉、冬なら雪灯籠や雪明かりが印象的です。
特に春の弘前城は、桜が城を飾るというより、城全体が花の気配に包まれる季節です。天守を見上げるだけでなく、水面に流れる花びらや、石垣の足元に積もる桜にも目を向けると、弘前城ならではの俳句的な美しさを感じられます。
弘前城の周辺にある石碑
弘前城がある弘前公園には、文学碑だけでなく、弘前の近代史や地域の歩みを伝える石碑も点在しています。
桜や天守を目的に訪れた場合でも、石碑の前で少し立ち止まると、弘前城は単なる名所ではなくなります。そこには、城を守った人、町を築いた人、言葉を残した人、そして時代の中で失われた人々の記憶が重なっています。
宇都野研歌碑
宇都野研歌碑は、弘前城と文学を結び付けて楽しみたい人におすすめの石碑です。
桜が舞い散る春の景色を詠んだ短歌が刻まれており、花の盛りを過ぎた頃に訪れると、碑文の世界と目の前の風景がより深く重なります。
天守や桜を眺めたあとに歌碑の前へ立つと、弘前城の春が目で見る景色から、言葉で味わう景色へと変わります。
福士幸次郎詩碑
弘前公園には、詩人・福士幸次郎の詩碑もあります。昭和32年に建立された文学碑で、次の一節が刻まれています。
胸にひそむ火の叫びを雪ふらさう
雪国の静けさと、胸の内にある熱を対照的に描いた言葉です。
春の弘前城が華やかな季節であるなら、この詩碑は冬の弘前を思わせます。雪に包まれた公園を歩くときに碑文を読むと、津軽の厳しい自然と、その中で育まれた力強い気質が伝わってきます。
鷹揚園記碑
鷹揚園記碑は、弘前公園の歴史を感じるうえで見ておきたい石碑です。
弘前公園は鷹揚園とも呼ばれます。城跡が公園として市民に親しまれてきた歴史を知ると、弘前城はかつての藩主の居城であると同時に、長く地域の人々に寄り添ってきた場所でもあることが見えてきます。
天守を訪れる前後に石碑へ目を向けると、城を守る歴史だけでなく、公園として受け継がれてきた時間にも触れられます。
菊池九郎碑
菊池九郎碑は、近代弘前の歩みを伝える石碑のひとつです。
菊池九郎は、明治22年に初代弘前市長へ就任した人物として知られています。弘前城は江戸時代の歴史を色濃く残す場所ですが、園内の石碑を巡ると、明治以降の弘前がどのように形づくられてきたのかも見えてきます。
城下町の歴史は、城が築かれた時代だけで終わりません。近代のまちづくりへと続く時間もまた、弘前城の周辺に刻まれています。
弔戦役諸霊碑
弔戦役諸霊碑は、戊辰戦争に関わる戦没者を慰霊する石碑です。
華やかな桜の名所として知られる弘前城ですが、園内には戦争で失われた人々を悼む碑も残されています。桜の季節には多くの人が行き交う場所だからこそ、石碑の前では歴史の重みがより静かに伝わります。
美しい景色のすぐそばに、祈りと追悼の記憶が残されていること。それもまた、弘前城が持つ大切な表情のひとつです。
西舘孤清翁碑
西舘孤清翁碑は、弘前藩と津軽家に生涯を捧げた西舘孤清をしのぶ石碑です。
城跡には、城を築いた人々だけでなく、城と藩の歴史を支えた人々の足跡も残されています。天守や城門のように目立つ存在ではありませんが、こうした石碑を巡ると、弘前城を形づくってきた人の存在がより身近に感じられます。
弘前城は、桜を見るための城として訪れても十分に美しい場所です。しかし、短歌や俳句を読み、石碑の前で立ち止まると、景色の奥にある時間まで見えてきます。
花の下で短歌を読み、城を見上げながら俳句を味わい、石碑に刻まれた名前や言葉をたどる。その静かな時間が、弘前城の旅をより深く、忘れにくいものにしてくれます。
弘前城(ひろさきじょう)ってどんな城?城主は誰?歴史や見どころを簡単に解説
弘前城(ひろさきじょう)は
青森県弘前市にあるお城です。
弘前城ってどんな城なのか?
弘前城の城主はいったい誰なのか?
弘前城の歴史や城主だけでなく観光での見どころについても簡単に解説していきます。

弘前城の歴史について
弘前城の歴史は1594年まで遡ります。

戦国武将の津軽為信が津軽に入り、
弘前にお城を築城しようと計画します。
しかし築城開始して間もなく
為信は京都にて亡くなったため、
家督を継いだ津軽信枚が築城を再開し
わずか1年2か月程の期間で築城します。
1611年、津軽信枚が
弘前城の城主となります。
江戸時代初期の1627年。
弘前城が落雷に遭い、天守で炎上し内部の火薬に引火して大爆発。
弘前城の5層6階の天守、本丸御殿、諸櫓などが消失してしまいます。
当時の武家諸法度により
自由に城を築くことは禁止されていた為
天守は再建されず櫓で代用されます。
以後200年近く
天守のない時代が続きました。
時は流れ1810年、津軽藩主の寧親が
隅櫓を改造する形で天守を新築します。
これが現存する天守であり、
西南隅に三層を成し
御三階櫓と呼ばれています。
なお落雷により焼失した五層の天守は、
本丸南西部を守っていた櫓で
現在は石垣のみ残されています。
弘前城は、現在の弘前市における弘前公園がそれにあたり、津軽統一を成し遂げた津軽為信(ためのぶ)によって慶長8年(1603年)に計画され、二代目信枚(のぶひら)が慶長15年(1610年)、築城に着手し、翌16年に完成しました。以後、弘前城は津軽氏の居城として、廃藩に到るまでの260年間、津軽藩政の中心地として使用されました。
引用:青森県観光情報サイト
弘前城の見どころとは?観光前に要チェック!
弘前城の城内はもちろんのこと、
弘前城周辺にも
いくつもの名所があるんです。
ここでは
弘前城の見どころを
紹介していきます!
天守【弘前城の見どころ】
落雷による火事で
一度は消失してしまった天守。
建築年こそ新しいものですが、
水のあるお堀側の東・南両面には
鉄扉をつけていません。
1・2階にはその中央に張り出しをつけ
切妻破風・石落としを設けるなど
古形式を特徴としています。
弘前公園【弘前城の見どころ】
弘前城の前にある弘前公園では、
年間を通して様々なイベントを行います。
- 春…弘前さくらまつり
- 夏…弘前ねぷたまつり
- 秋…菊と紅葉まつり
- 冬…弘前城雪燈籠まつり
毎年、春には
弘前公園内のソメイヨシノは
樹齢100年を越すものが300本以上あり、
桜並木の迫力を楽しめます。
他にも夏に行われる弘前ねぷたまつりは
国の重要無形民俗文化財に指定されています。
また、行われる期間などは
年によって異なる場合があるので、
旅行前に必ずチェックしておきましょう。
長勝寺構・新寺町【弘前城の見どころ】
弘前城の城下町には
弘前城の西を守る長勝寺と
南を守る新寺町があります。
どちらも江戸時代に建てられたもので
新寺町には最勝院五十塔という
古い建物があります。
藩祖津軽為信の津軽統一の際に
戦死した敵味方の将士を供養されるために建立されました。


