韓国併合(かんこくへいごう)とは
日本が韓国を領有して植民地とした出来事です。
※領有(りょうゆう):他国の領土を自国のものにすること
韓国併合が起きた時期:1910年(明治時代)
韓国併合は別名で
- 日韓併合(にっかんへいごう)
- 朝鮮併合(ちょうせんへいごう)
- 日韓合邦(にっかんがっぽう)
などとも呼ばれています。
韓国併合(日韓併合)とは何か?
どのような出来事だったのか?などなど
韓国併合(日韓併合)について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
韓国併合(日韓併合)とは?
韓国併合(日韓併合)とは、
1910(明治43)年8月29日に施行された
「日韓併合に関する条約」に基づいて
日本が韓国を領有して植民地化した出来事です。
この条約によって
大韓帝国(当時の韓国)の皇帝であった
純宗は皇帝を辞めさせられます。
長年朝鮮半島を支配してきた李氏朝鮮は
この出来事がきっかけで滅亡したのです。
日本による朝鮮半島の統治は
1945(昭和20)年9月9日まで続きました。
※約35年間
日本が第二次世界大戦で負けた後に
韓国に対する日本の支配は終了することになります。
具体的には朝鮮総督府が
降伏文書に調印するまでの期間です。
※調印(ちょういん):双方の代表が条約の文書などに署名して印を押すこと
朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)とは何か?
朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)とは
簡単にわかりやすく説明すると
韓国の首都に作った日本の政府機関のこと。
逆でイメージするとわかりやすいです。
東京の中に、韓国政府の国会議事堂があるイメージです。
現在だと信じられない人も多いと思いますが
1910年から1945年までの間は
日本が韓国を支配していたということです。
韓国併合(日韓併合)の経緯
韓国併合(日韓併合)の経緯を解説します。
- 日清戦争【韓国併合の経緯】
- 日露戦争【韓国併合の経緯】
- 日韓協約【韓国併合の経緯】
日清戦争【韓国併合の経緯】
日本は1894年の日清戦争で勝利します。
そしてその翌年(1895年)に
下関条約(日清講和条約)を締結。
この条約により
清朝(現在の中国)の朝鮮王朝に対する
宗主権を放棄させました。
※宗主権(そうしゅけん):他国の内政や外交などを支配し管理する権利
つまり簡単にわかりやすく説明すると
日本は中国から韓国を奪うことに成功します。
日露戦争【韓国併合の経緯】
日清戦争で日本が清(中国)に勝利した後
ロシアが満州出兵などで朝鮮や満州への進出を強めます。
これに反発した日本は、イギリスと
日英同盟を締結したことを背景に
1904年、日露戦争でロシアと戦います。
なんとこの日露戦争で
日本はロシアに勝利します。
ロシアに勝利した日本は、
ポーツマス条約を締結して
大韓帝国(韓国)の保護権を手にいれます。
日韓協約【韓国併合の経緯】
この間にも、日本は大韓帝国(韓国)と
第一次日韓協約、第二次日韓協約を無理やり結びます。
第二次日韓協約が結ばれたことで
大韓帝国の外交権は日本のものとなりました。
そして
大韓帝国(韓国)の首都「漢城」に、
日本は韓国統監府を設置します。
これに怒った当時の韓国の皇帝高宗は、
日本の保護権を無効にするために
列強を頼ろうと、ハーグに密使を派遣。
これをハーグ密使事件といいます。
ハーグ密使事件に失敗した韓国は
日本とさらに第三次日韓協約を
結ばされ、内政権まで奪われました。
次第に日本の中で
大韓帝国(韓国)を併合すべきという意見が強まり、
1907年に韓国を併合する方針を閣議決定したのです。
韓国併合(日韓併合)後の韓国
韓国を併合した日本は、
韓国に対していくつかの改革を行います。
- 植民地支配の拠点
- 土地調査事業
- 教育改革
- 身分解放
日本は韓国の併合後、
韓国の首都である漢城の名前を
京城(けいじょう)と変更させます。
また、土地調査事業では
日本は韓国の土地をすべて調査して
その土地を日本政府の総督府のものとしました。
調査が終了した土地は
安い値段で払い下げをしました。
※払い下げ:国の土地などを国民に売ること
このことが原因で
当時の韓国の農民たちは
余裕がない生活を送ることに。
ちなみに韓国の土地を売った
日本政府の総督府とは、
「朝鮮総督府」のことです。
冒頭でも説明しましたが
朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)とは、
韓国の首都に作った日本の政府機関のことです。
最後に
韓国併合(日韓併合)とは何か?
どのような出来事だったのか?などなど
韓国併合(日韓併合)について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
この情報があなたにとって
少しでも役に立てば幸いです。