結論からいいますと
平清盛の死因は病死です。
- 平清盛の誕生日:1118年2月10日
- 平清盛の命日:1181年2月4日
※平清盛の最期の年齢は64歳
平清盛は最期、熱病にうなされながら
源頼朝の首を自分の墓の前に供えよと
遺言を残してこの世を去っていったと
「平家物語」により伝わっています。
※豆知識ですが、平清盛の最後を迎えた場所は九条河原の平盛国邸です。(京都府京都市にある高倉天皇誕生地)
平清盛はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
平清盛(たいらのきよもり)は
平安時代後期を生きた武将・公卿です。
- 平清盛の誕生時期:1118年
- 平清盛の死亡時期:1181年
※平清盛の最期の年齢は64歳
平清盛とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
平清盛の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
※平清盛の死因考察にもぜひお役立てください💡
- 平清盛の誕生日
- 平清盛と保元の乱
- 平清盛と平治の乱
- 平清盛、太政大臣に
- 平清盛の政治
- 平氏に対する不満
- 平清盛の最期
平清盛の誕生日
1118年2月10日、平清盛は
平忠盛(たいらのただもり)の長男として誕生します。
実は白河法皇の子で母は祇園女御
またはその妹という説もあります。
平清盛と保元の乱
1153年に父である平忠盛が亡くなったため
平清盛が平氏一門の頭領となります。
1156年には
後白河天皇と崇徳上皇の朝廷の
内乱、保元の乱が起こります。
平清盛は源義朝と共に
後白河天皇の陣営として戦い勝利、
播磨守、大宰大弐となります。
しかし源義朝は
左馬頭にとどまったため、
源義朝は大きな不満を抱きます。
また、この乱によって
武士である源氏と平氏が
貴族に替わって政治に参加するようになります。
平清盛と平治の乱
1156年、京都で
平治の乱が起こります。
これは藤原信頼や源義朝によって
後白河上皇の幽閉と
藤原通憲(信西)殺害に発展しました。
しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦の末、源義朝らに勝利します。
この結果、平氏に対抗できる武士はいなくなりました。
平清盛、太政大臣に
1160年、
平清盛は武士として初めての
公卿(くぎょう)となります。
さらに1167年には
太政大臣になります。
平氏の政権が成立し、
全盛をきわめました。
しかし平清盛は太政大臣を
わずか3か月で辞退します。
平清盛の政治
翌年の1168年、平清盛は
病危篤となり出家します。
のち、病から回復した平清盛は
福原に別荘・雪見御所を造営し、
厳島神社の整備として社殿を完成させます。
また、日宋貿易を積極的に
推し進め、拡大を目指しました。
平氏に対する不満
平清盛の勢力の伸張にたいして
後白河法皇をはじめとする院政勢力は
次第に不満を持ち始め、平清盛と対立していきます。
1177年には平家打倒の陰謀事件、
「鹿ケ谷の陰謀」が起こります。
これにより1179年には
平清盛が軍勢を率いて京都を制圧し
後白河院を幽閉します。
これは「治承三年の政変」と呼ばれています。
平清盛の最期
1178年、平清盛の娘「徳子」が
高倉天皇の皇子、安徳天皇を生みます。
1180年、当時3歳だった
安徳天皇を即位させます。
このとき都を福原に移しますが5か月後に京に戻します。
翌年の1181年、熱病により平清盛は死去します。
享年64歳。
平清盛の死因は病死です。
- 平清盛の誕生日:1118年2月10日
- 平清盛の命日:1181年2月4日
※平清盛の最期の年齢は64歳
平清盛は最期、熱病にうなされながら
源頼朝の首を自分の墓の前に供えよと
遺言を残してこの世を去っていったと
「平家物語」により伝わっています。※豆知識ですが、平清盛の最後を迎えた場所は、九条河原の平盛国邸です。(京都府京都市にある高倉天皇誕生地)
なお平清盛の死後、4年後には壇ノ浦の戦いによって平家は滅亡しました。