夢窓疎石(夢窓国師)ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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夢窓疎石の庭園
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夢窓疎石―日本庭園を極めた禅僧 (NHKブックス)

 

夢窓疎石(むそうそせき)とは
鎌倉時代から室町時代初期までを生きた
臨済宗の禅僧(禅宗の僧)です。
※臨済宗(りんざいしゅう):日本仏教の禅宗の1つ

誕生時期:1275年
死亡時期:1351年10月20日

 

夢窓疎石は、様々な庭園をつくり
現在の日本に素敵な景色を残してくれた
日本文化に大きな影響を与えた人物です。

※夢窓疎石は夢窓国師とも呼ばれます。

 

恵林寺開山、夢窓疎石(1275年:建治元年~1351年:観応2年/正平6年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代、室町時代にかけて、日本の禅宗史、仏教史はもとより日本の文化史全体に大きな足跡を残した中世禅界の巨人です。

引用:恵林寺公式HP「夢窓国師」

 

夢窓疎石とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
夢窓疎石について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

 

夢窓疎石(むそうそせき)ってどんな人?

夢窓国師―その漢詩と生涯

  • 夢窓疎石の誕生日
  • 夢窓疎石の出家
  • 夢窓疎石と禅宗
  • 夢窓疎石と後醍醐天皇
  • 夢窓疎石と足利尊氏
  • 夢窓疎石と七朝帝師
  • 夢窓疎石の最期

夢窓疎石の誕生日

夢窓疎石は1275年(健治元年)
伊勢国(現在の三重県)佐々木朝綱の子どもとして生まれます。
※夢窓疎石の具体的な誕生日は不明です。

 

夢窓疎石の出家

夢窓疎石は9歳のときに出家し、
甲斐(現在の山梨県)平塩寺の空阿の弟子となり、真言宗や天台宗を学びます。

 

1292年、18歳の夢窓疎石は
奈良の東大寺で受戒(じゅかい)します。

受戒(じゅかい)とは何か?
わかりやすく簡単に説明すると
仏教の教団に加入するためにする儀式のことです。

 

夢窓疎石と禅宗

夢窓疎石は20歳で上京して
建仁寺の無隠円範という僧から
日本仏教の禅宗を学びます。

その後も、鎌倉の各寺で修業をし、
中国台州出身の一山一寧(いっさんいちねい)
という僧や、御嵯峨天皇の皇子であった
高峰顕日(こうほうけんにち)らからも教えを受けます。

 

夢窓疎石と後醍醐天皇

1325年、夢窓疎石は
後醍醐天皇の要望により、上洛します。
※上洛(じょうらく):京都へ行くこと

 

後醍醐天皇から厚く信仰された
夢窓疎石は、南禅寺の住職に。

翌年には辞職して、北条高時に招かれて
鎌倉にある円覚寺に滞在します。

 

また、1335年に後醍醐天皇から
夢窓国師」の号を賜っています。

 

夢窓疎石(夢窓国師)と足利尊氏

建武の新政崩壊後は、
足利尊氏、足利直義から厚く信仰されます。

 

足利尊氏の命により、
京の嵯峨に天龍寺を開山します。

 

夢窓疎石は政治面においても
足利家の内紛の際に調停役を務めたりしたそうです。

この間にも、多くの武士や公家が
夢窓疎石を厚く信仰したとされています。

 

歴史を動かした夢窓疎石(夢窓国師)

後醍醐天皇の死後、
政敵であった足利尊氏は
後醍醐天皇の冥福を祈るため、
全国に安国寺を建立したという歴史があります。

実はこの歴史の誕生に
夢窓疎石の影響が大きく関わっていたそうです。

 

夢窓疎石(夢窓国師)と七朝帝師

夢窓疎石は多くの門弟を育てて、
その数は一万人以上と言われています。

門弟の中には、義堂周信絶海中律など
のちに五山文学の中心となった人物もいます。

 

また、夢窓疎石は生前と死後あわせて
7人の歴代天皇から賜ったことから
七朝帝師(しちちょうのていし)」と称されます。

 

夢窓疎石(夢窓国師)の最期

夢窓疎石(夢窓国師)は、生前に
夢窓語録』や『夢中問答集』など
著者もいくつか残しました。

 

そして夢窓疎石(夢窓国師)は
1351年10月20日(天平6年9月30日)
亡くなります。享年76歳。

 

夢窓疎石(夢窓国師)の庭園について

仏教を歩く No15 夢窓疎石と「五山文化」 (週刊朝日百科)

夢窓疎石(夢窓国師)は、
庭園の設計者としても
知られています。

夢窓疎石が設計したとされる
庭園は以下の場所です。

夢窓疎石の庭園
  • 西芳寺庭園(京都府、世界遺産)
  • 天龍寺庭園(京都府、世界遺産)
  • 永保寺庭園(岐阜県)
  • 瑞泉寺庭園(神奈川県)
  • 恵林寺庭園(山梨県)
  • 覚林房庭園(山梨県)

 

夢窓疎石(夢窓国師)の作風は、
自然の眺めや景観を活かしながら
石組などによって境地を重んじる
禅の本質を表現しているそうです。

 

夢窓疎石の設計した庭園の多くは
国の名勝(めいしょう)に指定され、
室町時代の造園芸術を発展させました。
※名勝(めいしょう):芸術上や観賞上、価値が高い土地について、国や地方公共団体が文化財として指定したもの

 

夢窓国師(1275〜1351年)は円覚寺開山仏光国師の孫弟子で、鎌倉時代から南北朝時代に円覚寺、南禅寺、浄智寺など五山の住職に就かれること八度、天龍寺、恵林寺など開かれた主なる寺六ケ寺、後醍醐天皇はじめ南北両朝の帝から賜った国師の号は七つ、これにより世に〈七朝の帝師〉と称えられました。

引用:夢窓国師と瑞泉寺

 

最後に

夢窓疎石

夢窓疎石とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
夢窓疎石について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

ちなみに現代では、
夢窓疎石は「夢窓国師」という名で
紹介されることも多いようです。

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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