蘇我蝦夷ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
蘇我蝦夷(そがのえみし)とは
飛鳥時代の豪族です。
※豪族(ごうぞく):大きな富や勢力を持つ一族
誕生時期:587年
死亡時期:645年7月11日
大臣として権威を振るいますが、
大化の改新をきっかけに
乙巳の変(いっしのへん)で自害します。
蘇我蝦夷とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
蘇我蝦夷について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
蘇我蝦夷ってどんな人?【生涯をざっくりわかりやすく解説】
- 蘇我蝦夷の誕生日
- 蘇我蝦夷と舒明天皇
- 蘇我蝦夷と皇極天皇
- 蘇我蝦夷と蘇我入鹿
- 蘇我蝦夷の最期
蘇我蝦夷の誕生日
蘇我蝦夷は587年(用明天皇2年)頃に
蘇我馬子(そがのうまこ)と、
太媛(ふとひめ)との間の子どもとして生まれます。
※蘇我蝦夷の具体的な誕生日は不明です。
蘇我蝦夷の母「太媛(ふとひめ)」は、物部守屋の妹です。
「日本書紀」などでは
蘇我蝦夷の呼び名は2つあり、
通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)で、
名は毛人(えみし)とも記されています。
蘇我蝦夷と舒明天皇
626年、父である蘇我馬子の死後に
蘇我蝦夷は大臣になったと考えられています。
当時の天皇であった推古天皇が亡くなると、
聖徳太子の息子である山背大兄皇子と
田村皇子のどちらを次期天皇にするかで
朝廷では議論が開始されます。
蘇我蝦夷は田村皇子を推薦していたため
山背大兄皇子を推した叔父の
境部摩理勢(さかいべのまりせ)を殺害します。
そして次期天皇は田村皇子となり、
舒明(じょめい)天皇として即位します。
舒明天皇の在位は12年間ありましたが、
実際に政治の実権を握っていたのは、大臣であった蘇我蝦夷でした。
蘇我蝦夷と皇極天皇
641年、舒明天皇が亡くなると
蘇我蝦夷は皇后(舒明天皇の妻)であった
皇極天皇を次期天皇に即位させます。
蘇我蝦夷の本命は、自身の甥である
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)であり、
皇極天皇はその中継ぎという存在でした。
また、山背大兄皇子の人気は
当時とても高かったようです。
なので、
もしも権力を持っていた蘇我蝦夷が
強引に古人大兄皇子を即位させると、
山背大兄皇子の勢力を刺激してしまう
恐れがあった為、皇極天皇を推薦したと考えられています。
このような決断や動きなどから
蘇我蝦夷は慎重な性格であったことが予想できます。
蘇我蝦夷と蘇我入鹿
643年頃、
蘇我蝦夷は蘇我入鹿(そがのいるか)に
冠位十二階で定めた最高位の紫冠を授けます。
※蘇我入鹿:蘇我蝦夷の息子
蘇我入鹿を大臣となぞらえて、
屋敷を「宮上の門」と呼ばせるなどして
自らを大王とするような行為を行います。
一方で、息子の蘇我入鹿は
山背大兄皇子を襲って一家を自殺に追い込みます。
「日本書紀」の記載によると、
この蘇我入鹿の行為を、蘇我蝦夷は怒り嘆いたそうです。
蘇我蝦夷の最期
このような蘇我親子の勝手な行いに
中大兄皇子と中臣鎌足らが動き始めます。
645年、皇極天皇の御前で
息子の蘇我入鹿が殺害されてしまいます。
蘇我入鹿の死を知った蘇我蝦夷は
翌日の645年7月11日(皇極天皇4年6月13日)に
自邸に火をつけて自害します。
これは乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれ、
有名な大化の改新の開始のゴングとなります。
最後に
蘇我蝦夷とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
蘇我蝦夷について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。