新見錦ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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新選組 水府派の史実捜査―芹澤鴨・新見錦・平間重助

新見錦(にいみにしき)
幕末期(江戸時代末期)を生きた
水戸藩浪士、壬生浪士幹部です。

誕生時期:1836年
死亡時期:1863年10月19日

 

新撰組内での立場として
幹部(副長)の役職をもっていましたが
最期には切腹を迫られました。

 

この記事では
新見錦とはどんな人だったのか
何をした人だったのかを
なるべく簡単な言葉でわかりやすく紹介していきます。

 

 

新見錦ってどんな人?

新選組の新常識 (集英社新書)

  • 新見錦の誕生日
  • 新見錦、浪士組に参加
  • 新見錦、壬生浪士の局長に
  • 新見錦、副長へ降格
  • 新見錦の最期

新見錦の誕生日

新見錦は1836年に誕生したと考えられています。
※正確な誕生日はわかっていません。

 

常陸国水戸藩(現・茨城県)浪士で、
芹沢鴨(せりざわかも)と玉造文武館党の同志だったとされています。

 

また、新見錦の読み方は
「しんみにしき」という説がある他、
新見錦は変名であり、
本名は新家粂太郎だという説があります。

 

岡田助右衛門に剣を学んで、
芹沢鴨永倉新八(ながくらしんぱち)と同じ
神道無念流免許皆伝を授かります。

 

新見錦、浪士組に参加

1863年、
尊王攘夷派清河八郎
(きよかわはちろう)
京都に上洛する徳川幕府14代将軍の
徳川家茂の警備という名目で
浪士組」の結成を江戸幕府に認めさせます。

 

新見錦もこの浪士組に参加して
三番組小頭となります。

後に新選組を結成する芹沢鴨
天然理心流剣術道場の試衛館の
近藤勇(こんどういさみ)も加盟しています。

 

また、新見錦の組下には
井上源三郎や沖田林太郎など、
5人の多摩系の天然理心流門人が配属されます。

 

新見錦、壬生浪士の局長に

その後、
清河八郎が江戸への帰還を宣言しますが
これに反発した芹沢鴨近藤勇らと共に
新見錦も京都に残留して、浪士組から離脱します。

京都に残留された人たちで結成された
壬生浪士(みぶろうし)」では当初、
芹沢鴨近藤勇、そして新見の3人が局長でした。

 

新見は芹沢鴨と行動を共にした腹心と
言われていますが、壬生浪士幹部として活躍した記録はあまり残っていません。

 

新見錦、副長へ降格

新見錦は途中で幹部から
副長へと降格しています。

 

永倉新八の「浪士文久報国記事」によると
新見錦は乱暴だった上に法令を犯して
芹沢鴨近藤勇らの説得も聞かなかったと記されています。

他にも
子母澤寛(しもざわかん)の「新選組始末記」では
新見は酒や女遊びにふけって隊務をさぼって
隊で使うお金と称して民家から”ゆすり”を繰り返したと書かれています。

 

新見錦の最期

永倉新八の「新選組顛末記」によると
悪行の数々を握られた新見錦は、
近藤勇と副長の土方歳三らに、
切腹しなければ斬首すると詰め寄られます。

 

その為、新見錦は遊んでいた祇園新地の
料亭三緒で切腹させられたとされています。

しかし、切腹までの経緯は書物によって
異なる点があり真相はよく分かっていません。

 

切腹した日付も1863年の
8月14日か15日と曖昧です。享年27歳。

また、9月には芹沢鴨らが暗殺された為、新撰組の水戸派は壊滅します。

 

 

最後に

根本正勝(新見錦)/胸上 マット缶バッジ 「舞台『ちるらん 新撰組鎮魂歌』」

 

この記事では
新見錦とはどんな人だったのか
何をした人だったのかを
なるべく簡単な言葉でわかりやすく紹介しました。

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

 

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