織田信康(おだのぶやす)は戦国時代(室町時代の末期)の武将です。
- 織田信康の誕生時期:不明
- 織田信康の死亡時期:1544年10月8日
織田氏の家臣であり、
愛知県の「犬山城」を
築城した人物でもあります。
織田信康とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
織田信康について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
織田信康とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
織田信康の誕生日
織田信康は尾張国の織田弾正忠家の
当主・織田信定(のぶさだ)の子として生まれます。
生母・生誕月日はわかっていません。
通称は与次郎、与二郎。
織田信秀の弟にあたり、
織田信長の叔父にあたります。
織田信定には織田信康を含め
10人の子どもがいたと記録されています。
- 信秀
- 信康
- 信光
- 信実
- 信次
- 信正
- 織田信安室
- 松平清定室
- 牧大和守室
- 遠山内匠助室
政治面での活躍
1533年、
織田信康の兄「織田信秀」が
主家筋の織田大和守家(清洲織田氏)織田達勝と争います。
和平成立後は、
織田信秀の代理として
織田信康が清洲城に出向きます。
織田信康、犬山城の築城
織田信康の大きな功績は
国宝にあたる犬山城を築城したことです。
もとは室町時代に
岩倉織田氏当主の織田敏広の
弟・織田広近がこの地に砦を築きます。
その後、岩倉織田氏の勢力が衰退し
1537年、信康が居城の木ノ下城を廃し
愛知県犬山市に城郭を造営したのです。
犬山城は現在も
天守のみが残っており国宝指定されています。
木曽川沿いの小高い山の上に
建てられた後堅固の城であり、
別名「白帝城(はくていじょう)」とも呼ばれます。
織田信康の戦面での活躍
1537年、
織田信康は犬山城に入城し
織田伊勢守家(岩倉織田氏)の
織田信安の後見役も務めます。
また、兄の織田信秀に従い、
今川氏との小豆坂の戦いなどで戦功を挙げます。
織田信康は、政戦両面で活躍しました。
織田信康の最期
1544年、織田信康は
斎藤道三との戦いに従軍します。
そして美濃稲葉山城攻め
(加納口の戦い)にて戦死します。
また、このときにはまだ
当主が織田信秀であったため、
織田信長の直接の家臣になる前に
討死したことになります。
織田信康の子ども
織田信康には子ども(息子)がいました。
- 織田信清(のぶきよ)
- 織田広良(ひろよし)または信益
- 織田信時(のぶとき)
また、
織田信時は織田信秀の子どもですが
織田信康の養子となりました。
織田信康死後の犬山城
織田信康の死後は、
織田信清が犬山城の城主となります。
織田信康の子「織田信清」は
織田信秀や織田信長に対して
反抗的であったため
犬山織田家は織田弾正忠家の
敵対勢力の一つとなりました。
対立した結果、
織田信長が犬山城を攻め取り、
その後は池田恒興や織田勝長など、
城主はめまぐるしく変わることとなります。
最後に
愛知県の「犬山城」の城主、
織田信康とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
織田信康について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。