坂本龍馬は薩長同盟の仲介をしたり
幕末期に活躍した人物の一人です。
そんな坂本龍馬は33歳で亡くなりますが
亡くなる直前まで持っていた愛刀があります。
この記事では
坂本龍馬の刀について紹介していきます。
坂本龍馬が使用していた3つの刀とは?
坂本龍馬は下級武士である郷士の家に生まれます。
のちの海援隊となる亀山社中を結成したり
薩長同盟を結成したりと、
おおいに活躍しますが、33歳のときに
何者かによって暗殺されてしまいます。
幕末の志士として活躍した坂本龍馬には、
暗殺される時まで持っていた愛刀があります。
- 陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)
- 備前長船(びぜんおさふね)
- 埋忠明寿(うめただみょうじゅ)
これらの刀について以下で解説していきます。
陸奥守吉行【坂本龍馬の刀】
陸奥守吉行は坂本龍馬の愛刀とされ、一番有名な刀です。
江戸時代の元禄年間を中心に活躍した
刀匠・吉行によって造られた土佐を代表する名刀です。
当時、国を変えるために尽力していた坂本龍馬。
大政奉還の前年、坂本龍馬が兄の権平に
坂本家の家宝を送ってほしいという旨の
お願いの手紙を送っています。
江戸幕府を終わらせる大政奉還という
大きく歴史が動く出来事に対して、
坂本龍馬自身も相当な覚悟と決心を
持っていたことが伝わりますね。
坂本龍馬は、暗殺される最期にも
この刀を持っていたといいます。
備前長船兼光【坂本龍馬の刀】
備前長船兼光は、父・八平が幼い坂本龍馬に送った刀といわれています。
この刀は、
室町時代の名工であった
勝光・宗光の合作で、室町時代末期に
作られたものとされています。
「五大力菩薩」の文字も刻まれていて刀身約52㎝の脇差であります。
埋忠明寿【坂本龍馬の刀】
埋忠明寿は、坂本家から1931年に京都国立博物館に寄贈された刀のひとつです。
この刀には
”土佐の赤ざや”ともいわれる
さやが残されています。
赤いさやというのは、
海援隊士のシンボルだったそうで、
坂本龍馬が亀山社中(のちの海援隊)を
結成した頃に手に入れたのではないかと考えられています。
坂本龍馬の刀が”本物”と判明!
坂本龍馬の死後、
坂本家は北海道へと移り住んで
坂本龍馬の遺品などを管理していました。
その坂本家が
大正時代の後期か昭和時代のはじめに
撮影した写真が発見され、そこには
床の間の刀掛に置かれた3本の刀が映っていました。
長い間、陸奥守吉行は戦火によって変形した為、
坂本龍馬のモノではないとされてきていました。
しかし、
坂本家から見つかったその写真によって
陸奥守吉行が本物であり、
坂本龍馬のものであったと証明されたのです。
埋忠明寿も、長年坂本龍馬ではない
別の人のものであると考えられていました。
最後に
この記事では坂本龍馬の3つの刀について紹介しました。