西郷隆盛の死因は自殺?暗殺?どんな最後(最期)だった?
結論からいいますと
西郷隆盛の死因は自決(自殺)です。
西南戦争中に銃で撃たれた後に
西郷隆盛は自ら命をたちました。
自決(自殺)といっても
自分で手を下したのではなく
仲間に自分を殺すよう頼んで
刀で首を切られて死亡しました。
- 西郷隆盛の誕生日:1828年1月23日
- 西郷隆盛の命日:1877年9月24日
※西郷隆盛の最期(最後)の年齢は49歳
西郷隆盛の最期(最後)の場所は
西南戦争の戦場である鹿児島です。
※西南戦争とは、1877年に西郷隆盛を中心とした鹿児島士族が起こした大規模な内乱です。
西郷隆盛は、幕末期の日本を変えた「維新の三傑」の一人。
そんな英雄「西郷隆盛」は
どのような最後(最期)を迎えたのか?
以下では
西郷隆盛の最後(最期)について
わかりやすく簡単に解説していきます。
目次
西郷隆盛の最後(最期)について【西郷隆盛の死因、その時の状況を具体的に解説】
西郷隆盛は西南戦争の開始を決意して
1万3000をこえる軍を指揮して熊本城に迫ります。
しかし西郷隆盛は、田春坂の戦いなどを経て、
城山に籠城しますが政府によって鎮圧されます。
「南洲翁遺訓」などの記録によると
城山に政府軍の集中砲火が降り注いだそうです。
それでも進撃しますが、
西郷隆盛は肩と右大腿部に銃弾を受けてしまいます。
そして西郷隆盛は
近くにいた別府晋介に
「晋どん、もうここらでよか」と言い、
襟を正し、ひざまずき拝礼します。
その後、この別府晋介は
「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし)」
=お許しください、
と叫び、西郷隆盛の首を切ったそうです。
つまり
西郷隆盛の最後(最期)は
自分で死に場所を決め、
仲間に自分を殺すよう頼み、自決(自殺)した。
1877年9月24日、享年49歳で
西郷隆盛は戦いの中でその生涯を終えました。
西郷隆盛の首は、
敵に取られることを恐れて
折田正助邸門前に埋められたそうです。
西郷隆盛の死を見届けた残りの兵士たちは
さらに進撃を続けて戦ったのちに、戦死してしまいます。
西郷隆盛の最後(最期)の地【西郷隆盛が死亡した場所はどこだったのか?】
西郷隆盛が別府晋介らと立てこもった
鹿児島の城山は、鹿児島市中央部にある丘陵です。
西郷隆盛はこの鹿児島の城山で死亡したとされています。
この地は西郷隆盛の最後(最期)の地であり
国の史跡・天然記念物に指定されています。
この鹿児島の城山には、
西郷隆盛の銅像も建てられました。
この西郷隆盛の銅像は
1927年に鹿児島出身の彫刻家
「安藤照作」が作成した作品です。
これは豆知識ですが
この鹿児島の城山にある西郷隆盛の銅像は、
西郷隆盛の配偶者(妻)の糸子が
「最も主人の生前の姿に近い」と言った銅像だそうです。
西郷隆盛が死亡した「西南戦争」が始まるきっかけや経緯
なぜ西郷隆盛は最期(最後)に
西南戦争を起こしたのでしょうか?
西南戦争が始まるきっかけや経緯を解説します。
↓
約260年続いた江戸幕府は、
討幕派の西郷隆盛らの活躍によって終わり
明治新政府の時代となります。
しかし西郷隆盛は、
明治新政府で「征韓論」を巡って
大久保利通や岩倉具視と対立します。
そのことをきっかけに西郷隆盛は
1873年に明治政府を辞して鹿児島へ帰郷。
そして鹿児島に私学校を創立し、
県令の大山綱良の全面支援のもと、
県下の警察や巡査などには、私学校の生徒が選任されます。
鹿児島は県内で徴収した税金を国に納めずに
独立国家に近い体系を創ろうとします。
これに反発や警戒した政府は
鹿児島にあった政府の武器や
弾薬を大阪に移そうとします。
私学校側の政府への猜疑は頂点に達し、
西郷隆盛暗殺と私学校の弾圧を企てていると断定。
そしてついに挙兵し、西南戦争が始まるのです。