弓術の達人「源為朝」ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

強弓伝 源為朝

 

源為朝(みなもとのためとも)
平安時代末期を生きた武将です。

誕生時期:1139年
死亡時期:1170年4月23日

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自らを鎮西八郎(ちんぜいはちろう)と称し
豪傑かつ暴れん坊として名を轟かせました。

 

弓術の達人「源為朝」とはどんな人
何をした人なのか、などなど
源為朝について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

 

目次

源為朝とは?何をした人?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】

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源為朝の誕生日

源為朝は、1139年(保延5年)に
源為義の八男として誕生します。
※源為朝の具体的な誕生日は不明です。

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源為朝は、源義朝の弟であり、
源頼朝・義経兄弟の叔父にあたります。

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幼時から勇気があって強く、悪く言うと
兄たちにも遠慮をしない傍若無人であったようです。

なんとわずか4歳の時に、
牛車をひっくり返したという
源為朝の逸話が伝えられています。

 

 

源為朝、13歳で九州に追われる

源為朝は気性が荒く乱暴な性格で
父の源為義を困らせていたようです。

源為朝が13歳のときに、
父の源為義の不興を買い勘当されてしまいます。

 

京都を追われた源為朝は、
僻地の鎮西(九州)に移り住みます。

 

源為朝、16歳で九州を平定

 

源為朝は、九州でも手下を集めて
合戦・略奪を繰り返して暴れまわり、
一帯を制覇して勢力を伸ばします。

そして肥後の豪士・阿曾忠国の婿となり
自らを「鎮西八郎」と名乗ります。

 

16歳という若さで、源為朝は
九州を平定するにまで上り詰めます。

 

朝廷では、為朝を京都に呼び戻そうとしますが
源為朝が聞き入れなかった為、
父・為義が検非捕使の官職を解かれてしまいます。

これを聞いて源為義は九州の強者28騎を率いて京都に戻ります。

 

 

源為義と保元の乱

保元・平治の乱 平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)

1156年、保元の乱では
父・為義に従って崇徳上皇方として
強弓をひいて奮戦します。

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一方、兄の源義朝
後白河天皇
として東国武士団を率います。

「保元物語」によると、
源為朝は内裏高松殿へ
夜襲を仕掛けることを提案します。

しかし左大臣・藤原頼長に退けられてしまいます。

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それでも源為朝は、
兄の源義朝が必ず夜襲を仕掛けると予想していました。

そして夜、案の定兄の源義朝が
崇徳上皇と藤原頼長がこもる白河北殿に
夜襲を仕掛けてきます。

 

公家たちは慌てて源為朝の機嫌を取り
対処してもらうために官位を与えようとしますが
源為朝は「もとの鎮西八郎でけっこう」とはねのけた話は有名です。

 

 

伊豆大島へ流刑

源為朝の父「源為義」は斬られてしまい、
保元の乱では崇徳上皇方は敗れました。

源為朝は、二度と強弓を射ることができない様に
ひじの筋を切られ、伊豆大島へ流罪とされます。

これも「保元物語」には、為朝の
弓の才能を惜しんだ朝廷が、
死罪は免じたものと記されています。

 

しかしその後、回復した為朝は
伊豆を所領としていた工藤茂光を差し置いて
傍若無人な振る舞いを繰り返します。

怒った工藤茂光は、朝廷から許可を賜って、為朝討伐を始めます。

 

源為朝の最期

 

1170年4月23日(嘉応2年4月6日)、
工藤茂光に追われた源為朝は、自分の
息子を刺し殺してから自害します。

しかし、源為朝の最期も諸説があって
自害せずに八丈島に渡った説や
琉球へ渡り琉球王の祖になったという説もあります。

 

 

源為朝とはどんな人だったのか?

保元物語 (夕陽亭文庫)

 

源為朝の大きな特徴は、
その体格にありました。

なんと身長2mを超える大男だったそうです。

保元物語では、左腕が右腕よりも13㎝も長くて
5人がかりで引くような強弓を一人で
使いこなすほどの剛腕だったと記されています。

 

 

 

最後に

強弓伝 源為朝

 

弓術の達人「源為朝」とはどんな人
何をした人なのか、などなど
源為朝について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

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