結論からいいますと
徳川吉宗の死因は病死です。
- 徳川吉宗の誕生日:1684年11月27日
- 徳川吉宗の命日:1751年7月12日
※徳川吉宗の最期(最後)の年齢は66歳
徳川吉宗の死因となった病気は
再発性脳卒中(中風)だとされています。
※中風(ちゅうふう):脳卒中の後遺症である半身不随、片麻痺、言語障害、手足の痺れや麻痺などを指す言葉
徳川吉宗はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
徳川吉宗(とくがわよしむね)は
江戸時代を生きた、江戸幕府第8代将軍です。
- 徳川吉宗の誕生日:1684年11月27日
- 徳川吉宗の命日:1751年7月12日
※徳川吉宗の最期の年齢は66歳
享保の改革を行った人物であり、
暴れん坊将軍としても有名ですね。
徳川吉宗はどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
徳川吉宗の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
※徳川吉宗の死因考察にもぜひお役立てください💡
徳川吉宗の誕生日
徳川吉宗(とくがわよしむね)は
1684年11月27日(貞享元年10月21日)に
徳川御三家の紀州藩(和歌山県)2代藩主である
徳川光貞の四男として誕生します。
母は側室の於由利の方(浄円院)です。
福井県藩主の徳川吉宗
徳川吉宗は14歳のときに
5代将軍徳川綱吉に会っています。
そして
越前国3万石をもらい
葛野藩主となります。
(越前国葛野:現在の福井県丹生郡越前町)
紀州藩主の徳川吉宗
1705年に、
紀州藩3代目を継いでいた
徳川綱教(徳川吉宗の兄)が亡くなり、
その後も同年に、徳川光貞(徳川吉宗の父)などが病死します。
そのため、徳川吉宗が家督を
相続して第5代紀州藩主となります。
徳川吉宗は、紀州藩の
財政の再建を図ります。
自らも木綿の服を着るなど率先して
質素倹約を徹底して行いました。
江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗
1716年に7代将軍の
徳川家継が8歳で亡くなった為、
徳川将軍家の血筋が絶えてしまいます。
そこで御三家の中から紀州藩主である
徳川吉宗が第8代将軍に選ばれたのです。
徳川吉宗はまず、前代で重用されていた
新井白石や間部詮房(あきふさ)らを退けます。
そして譜代の伝統的勢力を尊重して
幕府内の人々の心を統一し、自らの
将軍としての主導権を確立したのです。
徳川吉宗と享保の改革
第8代将軍となった徳川吉宗は
かの有名な「享保の改革」を行います。
- 新田開発
- 質素倹約
- 目安箱の設置
- 公事方御定書
- 医学、洋学の奨励
とにかく財政難に陥っていた幕府を
建て直そうと考えた徳川吉宗は、
お米の生産量を増やすために
新田開発やサツマイモの栽培を奨励します。
他にも、「目安箱」を設置して
庶民の意見を取り入れようと考えます。
これによって1722年には
国内初の国立病院が建立されたのです。
また貿易面においても、
鎖国で禁止していた洋書を一部解禁。
そこから西洋を学ぶ「蘭学」が広まり
のちに杉田玄白や前野良沢らによる
医学書『解体新書』が誕生するのです。
そして徳川吉宗は何よりも
質素倹約を率先して行います。
絹を着た大名を厳しく叱り、使用人や
大奥にいる美女50人もクビにしたそうです。
何故美女をクビにしたかというと
「美女は他に貰い手があるから」だとか。
徳川吉宗の最期(死因など)
その後、徳川吉宗は将軍職を自分の
息子である徳川家重に譲ります。
しかし徳川家重は上手に喋れず
よくおもらしをするなど
政務に支障があるということから、
徳川吉宗は”大御所”として亡くなるまで
息子の政治をサポートをしたそうです。
徳川吉宗は
1751年7月12日(寛延4年6月20日)に
再発性脳卒中が原因で亡くなります。享年66歳。
徳川吉宗の死因は病死です。
- 徳川吉宗の誕生日:1684年11月27日
- 徳川吉宗の命日:1751年7月12日
※徳川吉宗の最期(最後)の年齢は66歳
徳川吉宗の死因となった病気は
再発性脳卒中(中風)だとされています。
※中風(ちゅうふう):脳卒中の後遺症である半身不随、片麻痺、言語障害、手足の痺れや麻痺などを指す言葉
徳川吉宗は「暴れん坊」だったの?
徳川吉宗には「暴れん坊」という
イメージがあるかもしれませんが、
実際はどうだったのでしょうか?
徳川吉宗が、身長180㎝で
体重90kgを超える大柄だったから、
暴れん坊だったんだという説もありますが、
徳川吉宗の身長は155㎝と考えられています。
しいて言うならば徳川吉宗の性格が
人を頼らずに、自ら率先して行動する
たのもしい姿が「暴れん坊」と
とらえられたのかもしれませんね。