柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は
江戸時代の幕府側用人、譜代大名です。
誕生時期:1659年
死亡時期:1714年12月8日
江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の
寵愛を受けて幕政を主導しました。
柳沢吉保とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
六義園との関係や
柳沢吉保について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
柳沢吉保ってどんな人?
柳沢吉保は
1659年1月10日(万治元年12月18日)に
上野国舘林藩士の柳沢安忠の
長男として江戸市ヶ谷で生まれます。
母は側室の佐瀬氏(了本院)でしたが、
柳沢吉保の出産後に実家へ戻っている為
柳沢吉保は正室の青木氏のもとで養育されます。
柳沢吉保の家督相続
1664年、当時舘林藩主であった
徳川綱吉に初めてお会いします。
1675年、柳沢吉保は家禄530石の
家督を相続し、保明(やすあき)と改名。
柳沢吉保と徳川綱吉
1680年に、徳川綱吉が、
兄の4代将軍である徳川家綱の
将軍後継として江戸に入城します。
それに伴い徳川綱吉の家臣であった
柳沢吉保も小納戸役で幕臣となります。
柳沢吉保と破格の昇進
以後、柳沢吉保は徳川綱吉から
深く信頼されて破格の昇進を続けます。
1688年には側用人(そくようにん)に就任して、
1万2000石という大名に昇りつめます。
1690年には2万石を加増されて
従四位下に任ぜられます。
以来、徳川綱吉は58回も
柳沢吉保邸への御成(行き来)したそうです。
その後もさらに1694年には7万石の
川越藩主で老中格に、1698年には
大老が任ぜられる左近衛権少将となり、
老中をしのぐ権力を握って勢力をはります。
柳沢吉保と甲府藩主
そして1704年、柳沢吉保は
15万1200石の甲府(山梨県)藩主となります。
本来、甲府は江戸の西を守る
要所であった為、徳川家以外の大名が
城主となることは禁止されていました。
しかし、徳川綱吉のはからいで
甲斐源氏武田氏一門である柳沢吉保に
ゆかりある甲府の地を与えたのです。
徳川綱吉がこの世を去った後の柳沢吉保
大老格にまで昇進した柳沢吉保でしたが
1709年に徳川綱吉が亡くなります。
第6代将軍徳川家宣に代わると、
家臣である新井白石が権力を握って
政治を主導していきます。
勢いを失った柳沢吉保は同年に隠居。
隠居後は、徳川綱吉がたびたび訪れた
六義園(りくぎえん)の造営などを行います。
柳沢吉保の最期
柳沢吉保は
1714年12月8日(正徳4年11月2日)に
持病が再発して亡くなります。享年57歳。
六義園との関係について【柳沢吉保】
六義園とは、
東京都文京区本駒込にある名園です。
柳沢吉保と六義園は
どのような関係があるのでしょうか?
1695年に徳川綱吉は柳沢吉保に
下屋敷として駒込の地を与えます。
そしてその地に、柳沢吉保自らが
庭園の設計、指揮をして1702年に
池泉回遊式庭園を造ったのです。
これが六義園です。
明治時代には
岩崎弥太郎の所有となりましたが、
現在は東京に寄贈されて一般公開されています。
国の特別名勝に指定されています。
最後に
柳沢吉保とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
六義園との関係や
柳沢吉保について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。