源義仲(木曾 義仲)ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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源平武将伝 木曾義仲 (コミック版 日本の歴史)

源義仲(みなもとのよしなか)
平安時代末期を生きた信濃源氏の武将です。

誕生時期:1154年
死亡時期:1184年2月21日

 

別名「木曾義仲(きそよしなか)」、
平家物語においては
朝日(旭)将軍という名前で知られています。

 

この記事では
源義仲(木曾義仲)とはどんな人
何をした人なのかを紹介していきます。

 

 

源義仲(木曾義仲)とは?どんな人?

義仲これにあり

源義仲の誕生日

源義仲は、1154年(久寿元年)
源義賢(よしたか)の次男として生まれます。

母は遊女であったそうです。

源頼朝源義経兄弟とは
従兄弟にあたります。

 

2歳のときに父が源義平に殺された為
乳母の夫の中原兼遠に木曾(現・長野県)
育てられ、木曾次郎と称します。

 

源義仲は勇猛で
射に長けていたと伝えられています。

 

源義仲、挙兵

1180年、以仁王(もちひとおう)
全国に平氏打倒の命を発し、それに応じて
挙兵し信濃を制して上野に進出します。

 

しかし従兄弟の源頼朝や藤姓足利氏との
衝突を避けて信濃に帰ります。

1181年、源義仲は
信濃や越前などで連戦連勝して
次第に勢力を拡げていき、北陸地方にも進出します。

 

源義仲、入京

1183年2月に源頼朝と敵対して敗れた
志田義広と行家が源義仲を頼って身を寄せます。

源義仲は、この2人の叔父を庇護したことで
源頼朝との関係が悪化してしまいます。

 

また同年5月、倶利伽羅峠の戦いで
平家に奇襲を仕掛けて10万もの大軍の
平家軍を壊滅状態に追い込みます。

7月に源義仲は平安京入りを果たして
同じ頃に平家は都に居られなくなり、西国へ逃げていったのです。

 

治安回復の遅れ

入京した源義仲は
従五位下・左馬頭・越後守に任じられます。

しかし、山村で育った源義仲は
過去に平安京に居た源頼朝とは違い
朝廷内での立ち振る舞いや行動が
「粗野な人物」として疎まれてしまいます。

 

また、安徳天皇の次に
以仁王の皇子(北陸宮)を推すなど、
皇位継承問題にも介入したことも、
頼朝との仲を悪化させる要因に。

 

さらに、源義仲が率いていた軍隊は統制がなく、
その時期は飢饉の問題も重なっていた為、
治安回復にも時間がかかってしまうなど、
源義仲の政治はうまくいきませんでした。

 

寿永二年十月宣旨

そんな中、源義仲は
後白河法皇に平家追討を命じられます。

 

信用の回復や兵糧確保の為にも
源義仲ははりきって出陣します。

 

しかし、この間に
源頼朝が後白河法皇と接触して
寿永二年十月宣旨」が下されます。

これにより義仲は実質的に失脚、
頼朝が実権を握ることとなります。

 

源頼朝との接近をはかった後白河法皇と
対立を深めた源義仲は、1184年に法皇を幽閉し、自らを征夷大将軍に任じます。

 

源義仲(木曾義仲)の最期

源義仲は、源頼朝の命を受けて西上した
源義経と範頼軍との決戦(宇治川の戦い)に敗れます。

 

敗走の途中に近江国粟津で戦死しました。
享年31歳。

 

また、このときの巴御前の奮戦は有名で、
彼女はのちに尼となって越後友松に住んだと言われています。

 

最後に

源平武将伝 木曾義仲 (コミック版 日本の歴史)

この記事では
源義仲(木曾義仲)とはどんな人か
何をした人なのかを解説しました。

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

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