河上彦斎(かわかみげんさい)は
幕末期(江戸時代後期)から
明治時代初期までを生きた
尊王攘夷派の熊本藩士です。
誕生時期:1834年12月25日
死亡時期:1872年1月13日
”人斬り彦斎”という異名を持ち
漫画「るろうに剣心」の主人公である
緋村剣心のモデルとしても有名です。
この記事では
河上彦斎とはどんな人だったのか
刀や子孫についてもわかりやすく簡単な言葉で解説していきます。
河上彦斎とは?何をした人?
河上彦斎の誕生日
河上彦斎は
1834年12月25日(天保5年11月25日)に
肥後細川藩熊本城下の新馬借町(現在の熊本県)で
下級藩士の小森貞助の次男として生まれます。
同藩の下級藩士である河上源兵衛(彦兵衛)の養子となって、名前を彦斎と改めます。
河上彦斎と佐久間象山暗殺
河上彦斎は16歳で、藩主邸の
花畑屋敷の掃除係となった後、
京都で尊王攘夷運動に加わります。
1864年の池田屋事件で同じ熊本藩であった
宮部鼎蔵が新撰組によって斬られます。
その仇を討つべく京都に上洛した河上彦斎は、
「西洋かぶれ」な格好をして京を歩いていた
佐久間象山を暗殺します。
佐久間象山は、公武合体派で
開国論者の重鎮といえる存在でした。
また、高杉晋作らの長州藩改革派と
結んで禁門の変にも参加しています。
しかしその後、幕府を支持する
佐幕派の多かった熊本藩に捕らえられ、
大政奉還や王政復古、鳥羽伏見の戦いなどの時期は牢獄で過ごしています。
河上彦斎の最期
明治維新後、高田源兵衛と改名。
熊本藩に長州藩脱退騒動の隊士を
かくまったという謀反の疑いをかけられて逮捕されます。
1872年1月13日(明治4年12月4日)に
河上彦斎は東京へ送られ、斬首されます。享年38歳。
河上彦斎の刀について
河上彦斎の愛刀は、
2つ知られています。
- 肥後国同田貫宗廣
- 水心子正秀
これらの刀を以下で簡単に紹介します。
肥後国同田貫宗廣【河上彦斎の刀】
河上彦斎の愛刀の一つは
肥後国同田貫宗廣(ひごこくどうだぬきむねひろ)
であったと言われています。
肥後藩には同田貫(どうだぬき)一門と呼ばれる
刀工集団があり、河上彦斎も肥後藩の出身で
あることから、間違いないとされています。
また、
この同田貫は反りが深いという特徴も
持っていて、河上彦斎のスタイルであった
片手抜刀をするには反りが必要であったことからも、同田貫を使っていたと考えられています。
水心子正秀【河上彦斎の刀】
河上彦斎は水心子正秀(すいしんしまさひで)
という脇差(わきざし)を使用していました。
水心子正秀は、
江戸時代後期の刀工の作です。
脇差とは、武士が腰に差す2本の刀のうち、小さい刀のことです。
河上彦斎の子孫について
河上彦斎には、妻の天為子との間に
河上彦太郎という子どもが1人いました。
その河上彦太郎の子どもで
河上彦斎の直孫にあたるのが河上利治さんです。
河上彦斎は、人斬りとして有名ですが
その一方で人情に厚く、親思いで妻子にも優しかったと言われています。
最後に
この記事では
河上彦斎とはどんな人だったのか
刀や子孫についてもわかりやすく簡単な言葉で解説しました。