高杉晋作の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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結論からいいますと
高杉晋作の死因は病死です。
※病名:肺結核

  • 高杉晋作の誕生日:1839年9月27日
  • 高杉晋作の命日:1867年5月17日

※高杉晋作の最期(最後)の年齢は27歳

 

 

高杉晋作とは?どんな人?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】

高杉晋作 情熱と挑戦の生涯 (角川ソフィア文庫)

高杉晋作(たかすぎしんさく)とは
江戸時代後期を生きた長州藩士です。

  • 高杉晋作の誕生日:1839年9月27日
  • 高杉晋作の命日:1867年5月17日

※高杉晋作の最期(最後)の年齢は27歳

 

 

高杉晋作はどんな人だったのか
何をした人だったのか、などなど
高杉晋作の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。

高杉晋作の死因考察にもお役立てください💡

柴犬

  • 高杉晋作の誕生日
  • 高杉晋作、上海へ留学
  • 高杉晋作と尊王攘夷運動
  • 高杉晋作、奇兵隊を結成
  • 高杉晋作と長州藩
  • 高杉晋作と長州征伐
  • 高杉晋作の最期(死因)

高杉晋作の誕生日

高杉晋作は
1839年9月27日(天保10年8月20日)に
長門国(現・山口県)で長州藩士
高杉小忠太の長男として誕生します。

 

そして高杉晋作は
長州藩の藩校明倫館に入学。

 

19歳のときに吉田松陰の開いていた
松下村塾」に入門します。

 

しかし2年後に吉田松陰は
安政の大獄によって処刑されてしまいます。

 

高杉晋作、上海へ留学

1862年、高杉晋作は、
幕府使節随行員として中国の上海に留学します。

清(中国)が欧米の植民地となりつつある
実情などを知り、帰国後に記した
「遊清五録」という日記によると、
高杉晋作は大きな影響を受けたとされています。

 

高杉晋作と尊王攘夷運動

日本も中国と同じように、
欧米に支配されてしまうと心配した高杉晋作は、
長州藩に戻ると尊王攘夷運動に加わります。

 

同じ長州藩である久坂玄瑞らと共に、
江戸にあるイギリス公使館の焼き討ちを行います。

 

高杉晋作、奇兵隊を結成

1863年、
長州藩は関門海峡において
欧米の船を砲撃しますが、
報復にあい惨敗します(下関戦争)。

高杉晋作は長州藩の代表として
異国との交渉を担当しています。

 

その後、高杉晋作は下関の防衛を任せられ
身分にこだわらずに農民や町民から
志望者を
集めた奇兵隊を結成します。

 

高杉晋作と長州藩

八月十八日の政変によって
京都では長州藩が追放され、
高杉晋作は脱藩して京都へ潜伏したため、
後に長州で投獄されています。

 

さらに長州藩禁門の変で敗北して
朝廷からの敵(朝敵)とされて、
数多くの長州藩の志士が亡くなります。

 

久坂玄瑞は自害しています。

 

そのため長州藩の内部では、
幕府に味方をする人たちが実権を
握るようになります。

高杉晋作はこれに対抗して、
奇兵隊を率いて藩の実権を奪い返すのです。

 

高杉晋作と長州征伐

1864年、第一次長州征伐が起こります。

長州藩は江戸幕府軍に降参しますが、
高杉晋作はこれに反対し、
下関市にある
功山寺(こうざんじ)で兵を挙げます。

 

その後、第二次長州征伐が起こりますが、
このときには木戸孝允らが薩摩藩西郷隆盛
薩長同盟を結んでいたこともあり、幕府軍に勝利します。

 

 

高杉晋作の最期(死因)

1867年5月17日(慶応3年4月14日)に
高杉晋作は亡くなります。

高杉晋作の死因は結核であったと言われています。享年27歳。

 

同年の11月に大政奉還となり、
260年続いた江戸幕府は幕を閉じます。

 

高杉晋作は明治維新が終わる前に、
病気を患い亡くなったのでした。

 

 

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