結論からいいますと
天草四郎の死因は斬首です。
天草四郎は反乱を起こして捕まり
最後は斬首刑で若くして死亡しました。
- 天草四郎の誕生時期:1621年
- 天草四郎の命日:1638年4月12日
※天草四郎の最期(最後)の年齢は17歳
天草四郎の死因の元凶になったその反乱は、島原の乱として日本の歴史に深く刻まれています。
天草四郎はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
天草四郎(あまくさしろう)は
江戸時代初期のキリシタンです。
※キリシタン:安土桃山時代から江戸時代における日本人キリスト教信者のこと
- 天草四郎の誕生時期:1621年
- 天草四郎の命日:1638年4月12日
※天草四郎の最期(最後)の年齢は17歳
日本の歴史史上最大規模の一揆である
島原の乱の最高指導者として有名です。
以下では
天草四郎はどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
天草四郎の生涯(最初から最期まで)について
わかりやすく簡単な言葉で解説していきます。
天草四郎の誕生日
天草四郎は、1621年(元和7年)に天草諸島の大矢野島(現在の熊本県)で生まれたとされています。
※天草四郎の具体的な誕生日は不明です。
また、1623年に生まれたという説や
長崎出身という説もあったりするため
天草四郎の出生ははっきりしていません。
天草四郎は肥後国南半国のキリシタン大名で
関ヶ原の戦いで敗れて斬首された小西行長の
遺臣の益田好次(甚兵衛)の子として生まれます。
天草四郎の本名は益田時貞(ますだときさだ)。
益田家は浪人百姓として暮らしていて
家族ともに信心深いキリシタンでした。
天草四郎は「神の子の再来」?
天草四郎は経済的にも恵まれていて
幼少期から学問に励み、優れており
カリスマ性があったと伝わっています。
10代半ばには名を知られた存在で
”神の子の再来”と噂されたとか。
”盲目の少女に触れると視力が回復した”
”海面を歩いた”など様々な奇跡たちが
天草四郎の伝説として伝わっています。
じつは天草四郎は、
豊臣秀吉の子である豊臣秀頼の
落胤だったという逸話もあります。
※落胤(らくいん):身分の高い男が正妻以外の女性に密かに産ませた子。おとしだねともいう。
天草四郎と当時の天草地方
当時の天草地方は悪天候が続き
農作物も不作の年が続きます。
それでも幕府からは
多くの税金(年貢)を取り立てられ、
農民の生活はとても苦しいものでした。
また、その頃の江戸幕府の支持によって
当時の肥前日野江藩主の松倉重政による
厳しいキリシタン弾圧も行われます。
年貢を納められない農民や
改宗を拒むキリシタン信徒に対して、
火あぶりの刑や生きたまま海に投げ込むなどの激しい拷問や処刑が行われていたと伝わります。
天草四郎と島原の乱
このような過酷な年貢の取り立てと
弾圧に耐え切れず1637年、ついに天草四郎を
一揆軍の総大将とした島原の乱が起こります。
この島原の乱は日本の歴史上
最大規模の一揆(暴動)であり、
鎮圧までに4か月もの月日を要しました。
島原軍は全滅、幕府軍も
8000人もの死傷者が出たそうです。
天草四郎は一揆軍を統合して
原城に立て籠もって敵を防ぎます。
そして本丸に礼拝堂を設けて日夜
祈祷を行って軍の士気を高めて、キリスト教への信仰を深めたと伝わります。
天草四郎の最期(死因)
天草四郎は
1638年4月12日(寛永15年2月28日)、
肥後藩士の陣佐左衛門によって
原城の本丸で斬首されます。享年17歳。
なお、この島原の乱の鎮圧から1年半後にポルトガル人は追放され、日本で鎖国が始まるのです。
天草四郎は反乱を起こして捕まり
最後は斬首刑で若くして死亡しました。
- 天草四郎の誕生時期:1621年
- 天草四郎の命日:1638年4月12日
※天草四郎の最期(最後)の年齢は17歳
天草四郎の死因の元凶になったその反乱は、島原の乱として日本の歴史に深く刻まれています。