松倉重政とは?何をした人?わかりやすく解説【長崎県「島原城」の築城者】
松倉重政(まつくら しげまさ)は
安土桃山時代前期に誕生し
江戸時代前期までを生きた武将、大名です。
誕生時期:1574年
死亡時期:1630年12月19日
長崎県「島原城」の
築城者でもあります。
松倉重政とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
松倉重政について
わかりやすく簡単な言葉で紹介していきます。
松倉重政とは?
- 松倉重政の誕生日
- 松倉重政と関ヶ原の戦い
- 松倉重政と大坂の陣
- 松倉重政、島原城の築城
- 松倉重政とキリシタンの弾圧
- 松倉重政の最期
松倉重政の誕生日
松倉重政はおそらく1574年頃に
誕生したと言われています。
※松倉重政の具体的な誕生日は不明です。
筒井城主である筒井順慶の家臣・
松倉重信の長男として生まれます。
母は泰楽寺氏の娘です。
筒井順慶が死去した後は、
養子の定次が伊賀に転封されると
重政は大和に残って豊臣家の直臣となります。
松倉重政と関ヶ原の戦い
1600年に起きた関ヶ原の戦いでは
単身参陣して徳川家康に認められ、
大和(現奈良県)の五条二見城主となります。
松倉重政は
大和五条藩では雑税を免除して
商業を活発にするなどして
紀州街道に面した五条城下町の整備に尽力します。
現在の奈良県五條市では
松倉豊後守重政の官名から、
名君「豊後様」として現在でも高い評価をされています。
松倉重政と大坂の陣
1615年の大坂の陣では
大和・郡山城を救援したりとか
道明寺での戦いで後藤基次と戦います。
この戦功により重政は、1616年
肥前・日野江藩(現在の長崎県)
4万3000石を与えられて移封します。
松倉重政、島原城の築城
1618年、松倉重政は一国一城の制に従い
原城と日野江城を廃して島原城を築城します。
島原城は10万石の大名の城に
匹敵するほど大きい立派な城となりました。
4万石の領地には
不釣り合いな城を建てた負担は
大きかったことが見受けられます。
検地では、領内の石高を
実際の倍近くに見積もり、
領民の限界を超える税を取り立てます。
さらに幕府への忠誠心を示すために
江戸城改築にも多大な公儀普請役を
請け負ったため、それらの費用を
捻出するためにさらに過酷な搾取をします。
松倉重政とキリシタンの弾圧
当時、九州の地は
南蛮貿易の利を得ていた重政は
当初キリシタンを黙認していました。
しかし江戸幕府が鎖国政策を取り、
重政もキリシタンの弾圧を開始します。
それでも1625年に、将軍・徳川家光に
キリシタン対策の甘さを指摘されたため
徹底的な弾圧を始めます。
その弾圧の内容はひどいものであったと
オランダ商館長やポルトガル船長の
記録に残されています。
顔に「吉利支丹」という
文字の焼き鏝を押したり、
指を切り落とすなどといった
数々の拷問を行います。
松倉重政の最期
さらにキリシタン弾圧への
取り組みを幕府にアピールするため、
キリシタンの根拠地であるルソン攻略を
幕府に願い出て、長崎奉行竹中重義と
共同で偵察船を派遣します。
しかし1630年、出兵実施の矢先に
小浜温泉で急死しました。享年57歳。
毒殺されたという説もあります。
キリシタンや
年貢を納められない農民に対し、
残忍な拷問・処刑を行ったことが
のちに起こる島原の乱を引き起こすこととなりました。
最後に
松倉重政とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
松倉重政について
わかりやすく簡単な言葉で紹介しました。