浅井長政(あざい ながまさ)は
室町時代を生きた北近江の戦国大名です。
※北近江の場所:滋賀県
誕生時期:1545年8月28日
死亡時期:1573年9月26日
浅井氏3代目の当主であり、
最期の当主となりました。
浅井長政とはどんな人だったのか
何をした人だったのか、などなど
浅井長政について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
浅井長政ってどんな人?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
浅井長政の誕生日
浅井長政(あざい ながまさ)は
1545年(天文14年)頃に観音寺城下(現・滋賀県)で
浅井久政の子どもとして生まれます。
※浅井長政の具体的な誕生日は不明です。
浅井長政の幼少時代
当時、南近江の守護であった
六角氏に敗れた浅井氏は、
領地を失い六角氏に従っていました。
そのため、浅井長政は母と共に
人質として育ったと考えられています。
浅井長政の妻は
六角氏の家臣(平井定武)の娘ですが
この結婚は強制的に行われた可能性が高いとのこと。
浅井長政が家督相続
1560年、浅井長政は15歳という若さで
軍を率いて野良田の戦いで六角氏を破ります。
父(浅井久政)に不満を持つ家臣らと共に
浅井長政は父を竹生島に隠居させて
強奪に近い形で家督を継ぎます。
六角氏は衰退しはじめ、
浅井長政は妻(平井定武の娘)と
離縁(離婚)して六角氏に返しました。
浅井長政と織田信長の同盟
1563年、織田信長は
浅井長政に同盟を提案します。
近江という場所は、京都にも近くて
「近江を制する者は京都を制す」と
言われる程、重要だったとされています。
織田信長の提案した同盟の条件は
浅井長政にとって有利な内容でしたが、
家臣たちの間では賛否両論あったそうです。
なぜかというと、浅井久政の盟友である
朝倉友景と織田信長が不仲だったから。
浅井長政は「朝倉家を攻めない」という
条件を追加した上で、同盟を結ぶことに。
その流れで
織田信長の妹であるお市の方が
浅井長政の継室として嫁ぎました。
浅井長政の同盟破棄
しかし1570年、織田信長が
浅井長政との約束を破ります。
織田信長は徳川家康と共に
越前国(現・福井県)の朝倉氏を攻めたのです。
悩んだ末に、浅井長政は
朝倉氏との同盟を重視して
織田徳川軍を背後から攻め込みます。
織田信長は部隊の最後尾であった
木下秀吉(豊臣秀吉)らの働きにより近江国を脱出します。
浅井長政と姉川の戦い
1570年7月、
織田信長と徳川家康の連合軍と、
浅井長政と朝倉義景の連合軍による
姉川の戦いで浅井長政軍は大敗。
浅井長政は小谷城に立てこもります。
浅井長政の最期
姉川の戦いから3年後の1573年、
織田信長は3万の兵を率いて
北近江に攻め込みます(小谷城の戦い)。
ついに本拠の小谷城まで
織田信長軍に包囲されてしまった浅井長政。
織田信長は、木下秀吉(豊臣秀吉)らを送り
降伏するように圧力をかけますが、
浅井長政はこれを断り続けたそうです。
そして1573年9月26日(天正元年9月1日)に
浅井長政は小谷城内の赤尾屋敷にて自害します。享年29歳。
これによって浅井氏は滅亡したのです。
最後に
この記事では
浅井長政とはどんな人だったのか
何をした人だったのか、などなど
浅井長政について
簡単な言葉を使いながら
なるべくわかりやすく解説しました。
少しでもお役に立てば幸いです。