姉川の戦いとは?【経緯や決戦の場所についても、わかりやすく簡単な言葉で解説】
姉川の戦い(あねがわのたたかい)とは
戦国時代(室町時代末期)に行われた合戦です。
開戦時期:1570年7月30日
織田信長と徳川家康の連合軍が
浅井長政と朝倉義景の連合軍に勝利し、
浅井・朝倉両氏の滅亡のきっかけとなりました。
この記事では
姉川の戦いとはどんな戦いだったのか
経緯や決戦の場所なども含めて
なるべくわかりやすく解説していきます。
姉川の戦いとは?どんな戦い?【簡単にわかりやすく解説】
まず、姉川の戦いについて簡潔に説明します。
姉川の戦いとは、
1570年7月30日(元亀元年6月28日)に
近江国(現・滋賀県)で行われた
織田信長と徳川家康の連合軍と
浅井長政と朝倉義景の連合軍の戦いです。
織田信長は、
徳川家康に援軍を求めて
3万4000の兵を挙げます。
それに対する浅井長政も
朝倉義景に援軍を求めて
2万1000の兵を挙げたとされています。
この戦いによって
浅井・朝倉両氏は次第に勢力を失って、
滅亡への道をたどることとなるのです。
姉川の戦いの決戦の場所はどこ?
姉川の戦いの決戦の場所は、
戦の名前にもあるように、
近江浅井郡姉川河原という地です。
現在の滋賀県長浜市野村町あたりです。
現在では200mほどの川があり、
野村橋と呼ばれる橋がかけられています。
野村橋の背後には大依山という山があり
ここには陣城らしき遺構が数か所残っています。
姉川の戦いが起きるまでの経緯とは?
この姉川の戦いの引き金を引く
大きなきっかけを作ったのは織田信長です。
この物語の始まりは、
織田信長と浅井長政の同盟から始まります。
岐阜県を本拠地としていた織田信長が、
美濃の斎藤氏を攻略するために
滋賀県の琵琶湖北部を治めていた
浅井長政に同盟を呼びかけます。
織田信長の妹である「お市の方」と
浅井長政を結婚させることで
浅井家と姻戚関係や同盟関係を結び、
うまく味方につけることに成功。
浅井長政は同盟の条件として
「朝倉への不戦の誓い」を提示し
織田信長はそれを了承しています。
しかし、事件は起こります。
織田信長が徳川家康と一緒に
なんと越前の朝倉氏を攻撃。
朝倉家との縁が深かった浅井長政は、
この攻撃に黙っていることなんてできません。
朝倉氏との同盟関係を重視した浅井長政は、
織田と徳川連合軍を背後から襲います。
こうして姉川の戦いの
始まりのゴングが叩かれたのです。
姉川の戦いについての解説で
「浅井長政が織田信長を裏切った」
と表現されることが多いですが
先に約束を破ったのは
実は織田信長だったのです。
姉川の戦いでは、最初の方は
浅井と朝倉連合軍が優勢でした。
背後から襲われ
挟み撃ちになった織田信長でしたが、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の活躍などもあり、なんとか撤退。
その後は織田・徳川連合軍が圧勝します。
徳川家康の援軍によって、
結局は織田信長と徳川家康の勝利となったのです。
姉川の戦いにおける勢力図
- 磯野員昌
- 六角義賢
- 六角義治
- 堀秀村
- 阿閉定征
- 新庄直頼
- 遠藤直経
- 真柄直隆
- 藤堂高虎
- 真柄直澄
- 三田村国定
- 野村直隆
- 大野木秀俊
最後に
この記事では
姉川の戦いとはどんな戦いだったのか
決戦の場所はどこだったのか
なるべくわかりやすく簡単に解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。