北畠親房(きたばたけ ちかふさ)とは
鎌倉時代後期から室町時代前期までを生きた公卿です。
※公卿(くぎょう):日本の役人の最高幹部
誕生時期:1293年3月8日
死亡時期:1354年
北畠親房とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
北畠親房について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
北畠親房とは?どんな人?
北畠親房の誕生日
北畠親房(きたばたけ ちかふさ)は
1293年3月8日月(正応6年1月29日)に
右衛門督である北畠師重(きたばたけもろしげ)と
藤原隆重の娘との子どもとして誕生します。
北畠家は、村上源氏の流れを汲む名門で
北畠親房は生後半年で従五位下に叙任。
「従五位下に叙任」とは何か?
わかりやすく簡単に説明すると、
北畠親房は生後半年で貴族になったということ。
※近代以前の日本における位階制度では、
従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされています。
そして北畠親房は8歳で元服(げんぷく)し、
父の出家に伴って15歳で家督を相続します。
ちなみに元服(げんぷく)とは、
現在という成人式のような儀式です。
成人の通過儀礼として
奈良時代から行われるようになりました。
何歳で行うのかは決まってなく
だいたい11歳から17歳の間に
行われることが多かったそうです。
北畠親房と後醍醐天皇
北畠親房はとても優秀であったことが
後醍醐天皇の言葉からも推測できます。
「後の三房(のちのさんぼう)」
1318年に即位した後醍醐天皇から
「後の三房」と謳われるほどの
北畠親房は信頼を得ていたそうです。
北畠親房と世良親王(ときながしんのう)
信頼を獲得した北畠親房は、
後醍醐天皇の息子である
世良親王の養育を任せられます。
どんどん出生する北畠親房
北畠親房はどんどん出生していきます。
1323年には権大納言に昇進し、
ついには源氏長者へと昇りつめます。
※源氏長者(げんじのちょうじゃ)とは、
源氏一族全体の中でトップに立つ人を差します。
しかし1330年、世良親王の急死を悲しみ
北畠親房は出家し、一時政界を引退します。
北畠親房と鎌倉幕府の滅亡
1333年。鎌倉幕府が滅亡します。
その後醍醐天皇が建武の新政を始め
その時、北畠親房は政界に復帰しています。
ただし、
建武の新政に不満を持つ足利尊氏が
後醍醐天皇と対立することに。
北畠親房は奥州駐屯を命じられた
長男の北畠顕家(あきいえ)と共に、
後醍醐天皇の皇子である
義良親王(のちの後村上天皇)と一緒に
陸奥国多賀城に向かいます。
北畠親房と足利尊氏
1336年、北畠親房は
足利尊氏討伐のために京都へいき
新田義貞と楠木正成とともに、
足利尊氏の追い払いに成功します。
しかし形勢を建て直した
足利尊氏に攻め込まれてしまい、
後醍醐天皇は負けてしまうことに。
北畠親房と南北朝時代
足利尊氏が光明天皇を擁立して
京都に北朝を開きます。
これに対抗して、
北畠親房は後醍醐天皇と協力し
吉野に南朝を開きます。
※吉野の場所:現在の奈良県
朝廷が2つ存在するという
南北朝時代の誕生に
北畠親房は大きく関わってました。
北畠親房の「神皇正統記」
1338年、北畠顕家と義良親王が
京都に攻め込み息子の北畠顕家が戦死。
翌年には後醍醐天皇が亡くなった為、
義良親王が後村上天皇として即位します。
北畠親房は南朝の勢力を拡大すべく、
小田氏の小田城を拠点とし、
約5年にわたり関東や東北の勢力結集に努めます。
北畠親房は、
南朝の正統性を主張した
『神皇正統記』を、この時期に
執筆したと考えられています。
北畠親房の最期
小田氏に見限られた北畠親房は、
常陸国など関東での勢力拡大が
できないまま、吉野へと帰還。
北畠親房は、吉野で劣勢となった
南朝の後村上天皇を支え続けたそうです。
しかし楠木正成らの南朝方は敗れて
吉野からさらに山奥である賀名生行宮に落ち延びます。
そのような状況の中、北畠親房は
1354年に亡くなります。享年62歳。
北畠親房の死後、
南朝の指導者がいなくなり、
ますます衰退の道を辿るこことなります。
最後に
北畠親房とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
北畠親房について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
この記事が少しでも
あなたのお役にたてば幸いです。