徳川家康の養女「満天姫(まてひめ)」とは?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

満天姫伝

 

満天姫(まてひめ)とは
安土桃山時代から江戸時代初期までを生きた女性です。

誕生時期:1589年
死亡時期:1638年5月5日

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徳川家康の養女となりますが、
その人生は波乱万丈でした。

 

この記事では
徳川家康の養女「満天姫」について
なるべく簡単な言葉でわかりやすく紹介していきます。

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目次

徳川家康の養女「満天姫」とは?

戦国姫 -月の巻- (集英社みらい文庫)

  • 満天姫の誕生日
  • 福島正之と結婚し、離婚
  • 津軽信枚と満天姫の関係
  • 満天姫、実子の大徳寺直秀を毒殺
  • 満天姫の最期

満天姫の誕生日

満天姫は1589年(天正17年)に誕生します。

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徳川家康の異父弟である松平康元が父なので
満天姫は徳川家康の姪にあたります。

満天姫は徳川家康の養女となります。

 

福島正之と結婚し、離婚

会津の祖 中巻

1599年、満天姫は
まず徳川家康の養女として
福島正則の養子の正之に嫁ぎます。

しかし、1607年に
福島正之は乱行の為に
監禁、幽閉されてしまいます。

実は、この正之が幽閉されたのは
福島正則が実子(忠勝)に跡を継がせるため
企てたという説もあります。

 

当時18歳の満天姫は福島正則の判断で
離縁(離婚)させられ、出戻ることとなります。

夫だった正之は餓死。享年24歳。

出戻った満天姫でしたが、すでに
正之との子どもを妊娠しており、その後男児を出産します。

 

 

津軽信枚と満天姫の関係

の城物語―城下町弘前の誕生

 

1613年、天海のすすめなどもあって
徳川家康は満天姫を、津軽弘前藩主の
津軽信枚(つがるのぶひら)と再婚させます。

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しかし津軽信枚はすでに
石田三成の娘である
辰姫(たつひめ)を正室としていました。

津軽信枚徳川家康の不興を買わないように
満天姫を正室に迎え入れ、辰姫を側室に降格。

 

福島正之との間にできた男児は
家老の大徳寺氏の養子となり、
大徳寺直秀と名乗ります。

 

信枚の心は辰姫にあった為、
信枚は辰姫との間にできた子どもの
平蔵を自分の世継ぎにすると決めます。

翌年、満天姫も男児を出産しますが
平蔵がのちに3代藩主の津軽信義となります。

 

また辰姫は
32歳という若さで亡くなった為、
満天姫が信義を世継ぎとして育てます。

 

 

満天姫、実子の大徳寺直秀を毒殺

 

津軽信枚が亡くなり、
3代藩主は津軽信義に。

満天姫は葉縦院(ようじゅういん)と称します。

 

一方で、息子の大徳寺直秀が
自らは福島正則の孫であるとして
福島家の大名再興」を考えるようになります。

福島家はこの時、改易という罰により
屋敷や家禄を没収されて身分も落としていました。

大徳寺直秀は、大名の孫である自分が
津軽家の家老だなんて、と思ったのかもしれません。

 

この行動は、幕府からの津軽家の印象が
悪くなると考えた満天姫は、
大徳寺直秀に自重を促しますが、
大徳寺直秀はそれを聞き入れませんでした。

 

そして、大徳寺直秀が江戸へ旅立つ朝。
あいさつをしにきた大徳寺直秀に対して
満天姫は、毒を盛って殺したそうです。

津軽家を守ることを考えた満天姫は
自らの子どもを殺す選択をしたのです。

 

満天姫の最期

そして1638年、満天姫は弘前で亡くなります。

2度の結婚だけでなく、
再婚相手の家を守るために
実子である直秀を毒殺するという悲しい女性の生涯でした。

 

 

最後に

戦国姫 -風の巻- (集英社みらい文庫)

 

この記事では
徳川家康の養女「満天姫」について
なるべく簡単な言葉でわかりやすく紹介しました。

 

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