石田三成の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】
結論からいいますと
石田三成の死因は斬首です。
徳川家康に負けた石田三成は
最後は斬首の刑で死亡しました。
- 石田三成の誕生時期:1560年
- 石田三成の命日:1600年11月6日
※石田三成の最期の年齢は40歳
目次
石田三成はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
石田三成(いしだみつなり)は
戦国時代(室町時代後期)から
安土桃山時代までを生きた武将、大名です。
- 石田三成の誕生時期:1560年
- 石田三成の命日:1600年11月6日
※石田三成の最期の年齢は40歳
豊臣秀吉の家臣で五奉行の一人で
豊臣秀吉に忠誠を尽くした人物です。
この記事では
石田三成とはどんな人だったのか、
逸話なども紹介しながらその生涯を
なるべくわかりやすく解説していきます。
石田三成の誕生日
石田三成は1560年(永禄3年)に
近江国坂田郡石田村(現・滋賀県)に
石田正継の次男として誕生します。
残念ながら石田三成の誕生日は分かっていません。
当時の日本人は
ほとんどが数え年で年齢を数えていた為、
誕生日は重要ではなかったそうです。
ちなみに、同じ年に後藤基次・片桐貞隆らが生まれています。
豊臣秀吉に仕える石田三成
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が
長浜城の城主になった頃から、
石田三成は父と兄と共に秀吉に仕えます。
織田信長が本能寺の変で死亡後
豊臣秀吉が次の天下人となると、
石田三成も側近として活躍します。
1585年に豊臣秀吉が従一位関白に就任した際
石田三成は従五位下治部少輔に叙任されています。
その後石田三成は
訴訟の処理、財政運営、
太閤検地などに貢献します。
また九州征伐、小田原討伐、朝鮮出兵でも
軍師装備の調達や占領政策の立案や実施などに手腕を発揮します。
戦でも戦功を挙げますが、石田三成は
やはり戦よりも内政で才能を発揮しました。
1591年には
近江国佐和山城の城主となり、19万4千石を領します。
※現在、佐和山城は廃城となり
その地には彦根城が築城されています。
豊臣秀吉の死後の石田三成
1598年、豊臣秀吉が亡くなり
豊臣秀頼が家督を相続します。
しかし朝鮮半島からの撤兵が進む中、
政権内部では石田三成らを中心とする文治派と
加藤清正や福島正則らを中心とする武断派が対立を深めていきます。
その後、
前田利家が亡くなったことで
石田三成は徳川家康とも対立。
1600年、石田三成方の西軍と
徳川家康方の東軍に分かれて戦う
関ケ原の戦いが起こります。
はじめは石田三成方の西軍が優勢でしたが、
小早川秀秋の裏切りや脇坂安治らの
裏切りがあった為に形勢が逆転。
この戦に石田三成は敗れます。
石田三成の最期(死因や処刑場の場所など)
戦いに敗れた石田三成は、
徳川家康の命令を受けて石田三成を捜索していた田中吉政の追補隊に捕らえられます。
そして1600年11月6日(慶長5年10月1日)
石田三成は六条河原で斬首されます。享年40歳。
※六条河原:京都市の鴨川の河原にあった処刑場。
石田三成の死因は斬首です。
徳川家康に負けた石田三成は
最後は斬首の刑で死亡しました。
- 石田三成の誕生時期:1560年
- 石田三成の命日:1600年11月6日
※石田三成の最期の年齢は40歳
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石田三成の逸話
ここでは石田三成に
まつわる逸話を紹介します。
島の左近【石田三成の逸話】
当時名将として名高かった
島清興(左近)を家来にしたかった石田三成。
しかし島左近はどの大名からの
誘いも断っていたそうです。
その為、石田三成は当時4万石であった
自分の禄高のなんと半分の2万石を
与えて召し抱えたと言われています。
これを聞いた豊臣秀吉は、笑いながら
「君臣の禄高が同じというのは聞いたことがない」と興じたそうです。
優秀であった島左近を召し抱えた
石田三成に対する次のような狂歌が作られました。
三成に 過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城
石田三成にはもったいない
「過ぎたもの」が二つあって、
島左近と佐和山城であるという意味ですね。