津軽信枚(つがる のぶひら)は
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名です。
誕生時期:1586年5月9日
死亡時期:1631年2月14日
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津軽信枚について
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簡単な言葉で紹介していきます。
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目次
津軽信枚とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
- 津軽信枚の誕生日
- 津軽信枚と関ヶ原の戦い
- 津軽信枚、家督を継承
- 津軽信枚と津軽騒動
- 津軽信枚、弘前城の築城
- 津軽信枚、徳川家康の養女を正室(妻)に
- 津軽信枚の最期
津軽信枚の誕生日
1586年5月9日、津軽信枚は
陸奥津軽地方の戦国大名・
津軽為信の三男として誕生します。
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母は側室の栄源院で
白取伊右衛門の妹でした。
津軽信枚が10歳の頃、父の命令により
兄の信建・信堅と共にキリスト教徒になります。
津軽信枚と関ヶ原の戦い
1600年、関ヶ原の戦いが起こると
津軽氏は父・為信が徳川家康方に、
兄・信建が石田三成方についたといわれています。
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津軽信枚はというと、
ある関ヶ原合戦図の
東軍家康本陣には「卍」の旗が
描かれており、これが津軽信枚が
家康本陣に詰めていたとする一史料とされています。
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1607年、
兄や父の相次いで亡くなった為、
津軽信枚が家督を継承します。
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その後、
津軽信枚は天台宗の僧である
天海に弟子入りをします。
天台宗に帰依改宗して教義を学び、
藩内に天台宗寺院を建立して
天海の高弟を迎えて布教に尽力します。
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津軽信枚と津軽騒動
1608年、兄・信建の息子である
熊千代を擁する家中の一派との
家督を巡る争いが起こります。
津軽信枚は江戸幕府に対して
親睦策を取り、幕府との繋がりから
当主の座につくことができました。
この騒動は津軽騒動と呼ばれます。
津軽信枚、弘前城の築城
翌年の1609年には、
先代から整備が始まっていた
鷹岡城(のちの弘前城)築城の正式許可が下ります。
津軽信枚はこれを受け
5万石に満たない大名としては破格の
五層の大天守をもつ城郭を
わずか1年2か月で構築し、城下には
現在の弘前市につながる城下町を整備します。
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津軽信枚、徳川家康の養女を正室(妻)に
また、天海の取り計らいにより
下総関宿藩主・松平忠良の妹であり、
徳川家康の養女「満天姫」を正室(妻)として迎え入れます。
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これは江戸幕府体制下で津軽信枚の地位を固めます。
津軽信枚は辰姫を正室(妻)としていましたが、
満天姫を迎え入れるにあたり
辰姫を側室(正妻以外の妻)に降格させています。
1619年、辰姫は津軽信枚の長男・信義を生み、
翌年に満天姫が信英を生んだといわれています。
津軽信枚の最期
1627年、鷹岡城に落雷があり、
城内の火薬に引火します。
大爆発が起こり、
天守・本丸・櫓などが焼失してしまいます。
これは当時、
祟りではないかと信じられていたため、
それまで「鷹岡」と呼ばれていた藩都を
1628年、天海が天台密教での破邪の法から
名付けた「弘前」と改めました。
その間も津軽信枚は弘前の発展に尽力し、
青森を開港して、江戸への航路を開設します。
この青森港が
現在の青森県庁所在である青森市となります。
その他の領内の新田開発や農地整備、
新規人材登用なども積極的に行い、弘前藩の基礎を整えました。
1631年1月14日、津軽信枚は亡くなります。享年48歳。
最後に
津軽信枚はどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
津軽信枚について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。
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