王政復古の大号令とは何か?【簡単にわかりやすく解説】
飛鳥時代や平安時代などの
はるか昔の日本では、
天皇が政治を行っていました。
しかし鎌倉時代から700年もの間、
日本では武士が政治を行います。
そして江戸時代の末期になると
武士ではなく、ふたたび天皇が
政治をしようという動きが起こります。
王政復古の大号令とは何か?
どんな内容なのか?などなど
王政復古の大号令について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
「王政復古の大号令」とは?
「王政復古の大号令」とは
幕末(江戸時代末期)の
1868年1月3日(慶応3年12月9日)に
公家である岩倉具視によって出された
明治新政府の樹立を宣言したものです。
”王政復古”とは、
それまで廃止されていた
「王様(天皇)が政治をする体制」を
復活(復古)させるという意味です。
王政復古の大号令は
以下の5項目から成り立っています。
- 幕府制度の廃止
- 京都守護職の廃止
- 将軍職辞職の許可
- 摂政・関白の廃止
- 新しい三職(総裁、議定、参与)という役職の設置
幕府を廃止して、天皇のもとに
新たな職を置き、有力な藩が共同で
政治を行う形をとるようにしたのです。
「王政復古の大号令」の狙いは?
岩倉具視や長州藩、薩摩藩らが
「王政復古の大号令」を発したのは
主に次の2つが狙いがありました。
- 徳川幕府の廃絶
- 幕府に処罰された人々を許すため
江戸幕府15代将軍徳川慶喜が
政権を朝廷にお返しする大政奉還を行っても
徳川家自体の力はまだ残っていました。
そして徳川慶喜は幕府がなくなっても、
天皇には政治を行う能力がない為
また自らに「政治を行う権限」が
戻ってくると考えていたのです。
薩摩藩士の西郷隆盛や大久保利通らは
「王政復古の大号令」を発して
大政奉還後も政治に介入してくる徳川慶喜を
排除することが狙いだったのです。
また禁門の変以降、
幕府によって処罰された武力倒幕派の
大名や公家を復権することも狙いの一つでした。
「王政復古の大号令」の経緯
約2か月前の慶応3年10月14日、
徳川慶喜は大政奉還を行います。
このことによって、
密かに「討幕の密勅」を準備していた
公家の岩倉具視や薩摩藩、長州藩らの
武力倒幕計画は空振りに終わります。
しかし徳川慶喜の
将軍職の辞職はなされず、幕府に代わる
行政機関や会議も行われませんでした。
そのため、徳川慶喜は
しばらく政治の実権を握ることとなります。
この状況を打破するために
長州藩、薩摩藩、芸州藩の3藩が
出兵同盟を締結し、岩倉具視は薩摩、
土佐、安芸、越前、尾張5藩の重臣を
集めて王政復古の大号令を断行したのです。
最後に
この記事では
王政復古の大号令について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。