斎藤義龍の死因は病気です。
※病名はハンセン病
しかし、昔の時代の人なので
じつは真実は謎に包まれています。
斎藤義龍は1561年の5月11日に急死。享年35年。
- 斎藤義龍の誕生日:1527年7月8日
- 斎藤義龍の死亡日:1561年5月11日
当時14歳の斎藤龍興が家督を継ぎました。
※斎藤龍興:斎藤義龍の子ども
斎藤義龍(さいとうよしたつ)はどんな人だった?子どもはいた?
「父親である斎藤道三を倒した人物」
として歴史上では解説されやすい斎藤義龍。
斎藤義龍(さいとうよしたつ)の歴史を
その一文で語ることはとてもできません。
詳しく歴史にふれることで
斎藤義龍のファンになる人も多いことでしょう。
斎藤義龍とはいったい
どんな人物だったのか?
斎藤義龍について
詳しく、そしてわかりやすく解説していきます。
- 斎藤義龍の誕生日:1527年7月8日
- 斎藤義龍の死亡日:1561年5月11日
斎藤義龍はどんな人だった?
斎藤義龍とはどんな人だったのか?
簡単にまとめると
戦国時代(室町時代末期)に大活躍した
ものすごく力をもった武将です。
濃姫の父親「斎藤道三」を倒し
あの織田信長をも、圧倒していたそうです。
当時の日本の政府「室町幕府」から
様々な地位や権力を与えられた
かなりの実力をもった戦国大名なのです。
しかし35歳の若さで急死したため
歴史上ではあまり有名にはなっていません。
知っている人は知っている
1部の歴史好きには人気の高い武将といえます。
斎藤義龍の両親
- 斎藤義龍の父親:斎藤道三
- 斎藤義龍の母親:深芳野
斎藤義龍の父親についての謎
斎藤道三(さいとうどうさん)といえば
濃姫の父親としてもとても有名な人物です。
※濃姫(のうひめ):織田信長の妻
一般的な歴史として
斎藤義龍の父親は
この斎藤道三だと認識されています。
しかし実は、
斎藤義龍の父親は
別の人である可能性もあります。
その別の人とは、
あの土岐頼芸です。
江戸時代に編纂された
『美濃国諸家系譜』という資料に
そのような記述が残っています。
※編纂(へんさん):複数の資料などから、書物の内容をまとめること。
斎藤義龍の母親「深芳野」
深芳野(みよしの)は、斎藤道三の側室(妻)です。
斎藤義龍の父親については諸説ありますが
斎藤義龍の母親は深芳野でほぼ間違いありません。
そして「美濃国諸家系譜」によると、
深芳野は斎藤道三の妻となる前は
土岐頼芸の妾(めかけ)だったとのこと。
※妾(めかけ)とは、妻としてではなく
持続的な男女関係にある女性を指します。
斎藤義龍の妻や子どもについて
斎藤義龍の妻は
近江の方(おうみのかた)だとされています。
※近江の方は、浅井久政の子どもです。
斎藤義龍の子どもは
斎藤龍興(さいとうたつおき)です。
1548年頃に、斎藤龍興は誕生したとされています。
この斎藤龍興の母親について
諸説あり本当のところはわかっていません。
なので実際のところ、
斎藤義龍の妻は他にも複数いたのかどうかなど
詳しいことはわかっていないということになります。
斎藤義龍の生涯(最初から最期まで)をざっくり解説
斎藤義龍の誕生日
斎藤義龍の誕生日は
1527年7月8日です。
斎藤義龍の幼名は、「豊太丸」。
斎藤義龍の産まれた場所は
美濃国(現在の岐阜県)だととされています。
斎藤義龍、稲葉山城の城主になる
1554年に、
斎藤義龍の父親だとされている
斎藤道三が隠居します。
その流れで、
美濃守護代斎藤氏の家督を継いで
斎藤義龍は稲葉山城の城主となったそうです。
※豆知識ですが、稲葉山城は現在だと
岐阜城という名でよばれることが多いです。
ちなみに、
斎藤道三の隠居の事実については諸説あり
本当は隠居していなかった可能性もあります。
斎藤義龍と斎藤道三の関係
斎藤義龍と斎藤道三の関係は
親子関係なので普通であれば
憎み合ったり争ったりはしないはず。
しかしこの2人は
思いっきり対立したそうです。
こういった記録からも
斎藤義龍の父親は斎藤道三ではなく
土岐頼芸だった可能性を信じたくなります。
長良川の戦い【斎藤義龍VS斎藤道三】
そして、1556年。
斎藤義龍は斎藤道三と戦い
長良川にて、斎藤道三を倒します。
この戦いの名は「長良川の戦い」。
長良川の戦いでは
旧土岐氏が斎藤義龍に協力しています。
ちなみに
この長良川の戦いが起きた時期に
斎藤道三の味方についた明智氏なども
斎藤義龍側の力で攻め滅ぼしたそうです。
斎藤義龍VS織田信長
長良川の戦いで苦戦する斎藤道三を助けるために
織田信長が尾張国から出陣したそうですが
そのサポートは間に合わなかったとのこと。
ただし、この時
斎藤義龍と織田信長は
少しだけ戦ったそうです。
織田信長は少しだけ戦闘した後
すぐに撤退したとされています。
斎藤義龍の弟である「斎藤利治」は
尾張の織田家に亡命したされていますが
そのタイミングはこの時期だと推測されています。
斎藤利治は織田信長から「長龍」
という名前をもらい改名しています。
斎藤義龍、戦国大名になる
斎藤義龍はその後も
織田信長と争い続けたそうです。
世はまさに、大戦国時代。
そういった争いがたえない16世紀後半は
室町時代の後半の時期です。
この時の日本の政府は「室町幕府」です。
当時の室町幕府のトップ(将軍)である
「足利義輝」から斎藤義龍は認められて
どんどん出世していきます。
1559年には、相伴衆に任命され
「戦国大名」として地位を確立します。
※相伴衆(しょうばんしゅう):室町幕府における役職的な身分の一つ
斎藤義龍の最期(死因)
様々な武将たちが
戦いを繰り広げる戦国時代で
大活躍していた斎藤義龍。
しかし、斎藤義龍は1561年の5月11日に急死します。享年35年。
斎藤義龍の死因は病気です。
※病名はハンセン病しかし、昔の時代の人なので
じつは真実は謎に包まれています。斎藤義龍は1561年の5月11日に急死。享年35年。
- 斎藤義龍の誕生日:1527年7月8日
- 斎藤義龍の死亡日:1561年5月11日
当時14歳の斎藤龍興が家督を継ぎました。
※斎藤龍興:斎藤義龍の子ども