久坂玄瑞ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

WRITER
 
男と文章
この記事を書いている人 - WRITER -

久坂玄瑞 (PHP文庫)

 

久坂玄瑞(くさかげんずい)
江戸時代を生きた幕末の長中藩士です。

誕生時期:1840年5月
死亡時期:1864年8月20日

 

高杉晋作と共に松下村塾の双璧といわれ、
長州藩における尊王攘夷派の中心物となりました。

 

 

この記事では
久坂玄瑞とはどんな人だったのか
何をした人だったのかを
なるべくわかりやすく簡単な言葉で紹介していきます。

 

 

久坂玄瑞ってどんな人?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】

風の如く 久坂玄瑞篇 (講談社文庫)

  • 久坂玄瑞の誕生日
  • 久坂玄瑞、吉田松陰の松下村塾に入門
  • 久坂玄瑞、公武合体から尊王攘夷に転換
  • イギリス公使館焼き討ちと下関外国艦隊砲撃
  • 久坂玄瑞と禁門の変
  • 久坂玄瑞の最期

久坂玄瑞の誕生日

久坂玄瑞は1840年(天保11年)5月
長門国(現・山口県)で藩医の久坂良迪と
富子の三男として生まれます。
※久坂玄瑞の誕生日の正確な日付はわかっていません。

 

久坂玄瑞は
「秀三郎」と名付けられました。

幼少期は私塾の吉松塾で儒教の経書の
四書の声を出して読む素読を受けます。

ここには高杉晋作も通っていたので、
幼い頃から両者は知り合いだったそうです。

 

その後、藩の医学所に入学しましたが、
14歳の頃に、母、兄、父を次々と亡くし
15歳で家族を全員失ってしまいます。

そのため、秀三郎(久坂玄瑞)は
藩医久坂家の当主となり、名前を「玄瑞」と改めます。

 

久坂玄瑞、吉田松陰の松下村塾に入門

松下村塾 (講談社学術文庫)

 

1856年、久坂玄瑞が17歳のときに
藩に願い出て、3か月間九州に遊学します。

宮部鼎蔵(ていぞう)を訪ねた際に、
吉田松陰(よしだしょういん)に学ぶことを強く奨められます。

 

久坂玄瑞は吉田松陰に手紙を書き、
書簡で論争を繰り広げたのち、
吉田松陰が開いていた松下村塾に入門します。

 

吉田松陰は、久坂玄瑞のことを
長州第一の俊才」であると高く評価し
高杉晋作と争わせて才能を開花させるよう努めます。

松下村塾では高杉晋作と共に
村塾の双璧」といわれたそうです。

その後、1857年に久坂玄瑞は
松陰の妹の文(ふみ)と結婚します。

 

久坂玄瑞、公武合体から尊王攘夷に転換

1859年、安政の大獄によって
師の松田松陰が処刑されます。

 

久坂玄瑞は、一燈銭申合を創り、
長州藩の尊王攘夷運動に奔走します。

 

長井雅楽(ながいうた)の「航海遠略策」によって
藩の人々は公武合体論に傾くと、
久坂玄瑞は同志と共に上京して
長井の弾劾に尽力したといわれています。

そして藩の意見が尊王攘夷に傾いた為に
長井雅楽は失脚し、その後切腹に追い込まれました。

 

イギリス公使館焼き討ちと下関外国艦隊砲撃

 

長州藩尊王攘夷運動は止まりません。

 

1862年12月に久坂玄瑞は高杉晋作、
井上馨伊藤博文らと共に、江戸の
品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ち
翌年にも下関の外国艦隊砲撃などに参加します。

 

再度京へ上洛して、
尊攘激派と大和行幸の計画なども画策します。

 

 

 

久坂玄瑞と禁門の変

幕末黎明 禁門の変始末

 

1863年の八月十八日の政変
長州勢が朝廷より一掃され、
長州藩は苦境に立たされます。

 

その後、長州藩では
真木和泉らの急進論が広まり、
久坂玄瑞も桂小五郎(木戸孝允)らと共に押し進めて、
京都守護職の追放を掲げた禁門の変を起こします。

久坂玄瑞もこの禁門の変に参戦して負傷します。

 

久坂玄瑞の最期

1864年8月20日、
久坂玄瑞は寺島忠三郎と共に、
鷹司邸内で互いに刺し違えて自害します。享年25歳。

 

 

最後に

高杉晋作と久坂玄瑞―変革期の青年像 (1966年) (大和選書)

 

この記事では
久坂玄瑞とはどんな人だったのか
何をした人だったのかを
なるべくわかりやすく簡単な言葉で紹介しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

 

この記事を書いている人 - WRITER -

Copyright© でも、日本が好きだ。 , 2018 All Rights Reserved.