徳川斉昭(とくがわなりあき)は
江戸時代後期を生きた大名です。
誕生時期:1800年4月4日
死亡時期:1860年9月29日
第9代水戸藩主で、江戸幕府
第15代将軍徳川慶喜の実父でもあります。
徳川斉昭とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
徳川斉昭について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
徳川斉昭ってどんな人?
徳川斉昭の誕生日
徳川斉昭(とくがわ なりあき)は
1800年4月4日(寛政12年3月11日)に
第7代常陸水戸(現在の茨城県)藩主である
徳川紀治(はるとし)の三男として生まれます。
三男なので、藩主になる予定はなく
8代藩主となった兄の徳川斉脩(なりのぶ)の
後継者候補(部屋住み)として、
30歳近くまで水戸藩に残ります。
徳川斉昭と家督争い
1829年、正室との子どもがいないまま
兄の徳川斉脩が亡くなります。
一部の家老たちは、
11代将軍の徳川家斉の男子を
水戸藩主に迎え入れようと画策します。
しかし兄の徳川斉脩の遺書に
「弟の徳川斉昭を後継者に」といった旨の
内容があったということで、徳川斉昭が
家督を相続したのです。
その遺言書は偽造であると推測されています。
第9代水戸藩主の徳川斉昭
第9代水戸藩主になった徳川斉昭は
聡明さと行動力を発揮し、
以下のような藩政策を行います。
- 弘道館(こうどうかん)
- 優秀な人材を登用
- 正確な石高の検地
一番有名な徳川斉昭の政策は
「弘道館」という藩の学校を作ったことです。
弘道館では、水戸学や自然科学、
武道、医学などを教えたそうです。
また、徳川斉昭は
「学問は一生行うもの」
と考えて、卒業がなかったのも特徴のひとつです。
他にも徳川斉昭は、身分に
こだわらずに優秀な人材を登用します。
学者の藤田東湖(とうこ)や会沢正志斎(せいしさい)、
武田耕雲斎(こううんさい)、青山拙斎(せっさい)など
後に西郷隆盛や吉田松陰らにも強い影響を
与える優れた人物を多く登用します。
剣術師範には、新撰組の山南敬助や
坂本龍馬なども輩出した「北辰一刀流」の
創始者である千葉周作を採用しています。
徳川斉昭は、開国には反対していましたが
西洋の文化や技術は積極的に取り入れていて
西洋の兵器を国産化しようと試みたりしました。
一方で、お寺の鐘や仏像を
大砲の材料にしてしまったりなど、
仏教を弾圧するような政策もした為、
幕府から謹慎と隠居を命じられてしまいます。
徳川斉昭とペリー来航
しかし、水戸藩では徳川斉昭の復権を
求めた運動が行われ、数年で謹慎を解除されています。
1853年にペリーが来航します。
そこで徳川斉昭は、幕府から
海防参与に任命されました。
徳川斉昭は、異国との交流を反対し、
追い払うべきと主張して、大量の大砲や
兵器などを幕府に差し出しています。
徳川斉昭と井伊直弼
そして、開国派であった
井伊直弼と激しく対立しました。
また13代将軍の徳川家定に跡継ぎが
いなかった為、将軍継嗣問題でも
両者は対立していたのです。
徳川斉昭は、一橋家に養子となっていた
徳川斉昭の実子である一橋慶喜を
次期将軍にと考えていました。
しかし、井伊直弼が大老に就任し、
14代将軍は徳川家茂(喜福)となります。
徳川斉昭は、一橋慶喜らと共に
抗議するため無断に江戸城へ訪れたことを
咎められ、謹慎処分となります。
さらに後には一生謹慎させられる
永蟄居(えいちっきょ)という重い罰を受けます。
徳川斉昭の最期
徳川斉昭は
1860年9月29日(万延元年8月15日)に
永蟄居のまま、亡くなります。享年61歳。
死因は心筋梗塞とされています。
最後に
徳川斉昭とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
徳川斉昭について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。