和歌山城(わかやまじょう)とは
和歌山県和歌山市にあるお城です。
和歌山城とはどんな城だったのか?
和歌山城の城主は誰だったのか?
この記事では
和歌山城の歴史や城主だけでなく
観光での見どころについても
わかりやすく簡単な言葉で解説していきます。
和歌山城の歴史について
和歌山城の歴史をたどると
安土桃山時代まで遡ります。
この和歌山城の城主は豊臣秀長で
1585年に築城を開始しています。
豊臣秀長とは、豊臣秀吉の弟です。
和歌山城はおよそ1年で完成しました。
その後豊臣秀長は郡山城(現・奈良県)に移り
家臣の桑山重晴が和歌山城の城主になります。
そして安土桃山時代に終わりを告げる戦い
関ヶ原の戦いが1600年に開戦された後。
浅野幸長が37万6千石で紀伊国に入国し、
和歌山城の城主になり様々な建物を増やします。
※紀伊国(きいにく):現在の和歌山県
和歌山城の城主になった浅野幸長は、
三層の大天守から楠門(くすのきもん)、
二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、小天守へと続く
連立式天守を建て、本丸や二の丸、西の丸に屋敷を造営。
さらに浅野幸長は、和歌山城の大手門を
岡門口から一の橋方面に移して、
本町通りを大手筋として城下町を整備しました。
天正13年(1585)、紀州を平定した羽柴秀吉は、弟の秀長に命じて紀ノ川河口部の「岡山」(現在の虎伏山)に城を築かせた。これが和歌山城の始まりである。その後、秀長は郡山城(奈良県大和郡山市)に移り、家臣の桑山重晴が和歌山城代となる。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が37万6千石で紀伊に入国し、和歌山城主となる。浅野氏は連立式天守を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手門を岡口門から一の橋の方面に移し、本町通りを大手筋として城下町を整備した。
引用:史跡和歌山城ホームページ
1619年に徳川家康の十男である徳川頼宣が
入城して城の改修と城下町の拡張をします。
しかし1846年の落雷で和歌山城は焼失。
当時、天守再建は禁止されていましたが、
御三家ということで特別に認められ
1850年にほぼ元の状態で復元されます。
1935年に国宝に指定されますが、
1945年の空襲で和歌山城は焼失します。
その後、市民からの要望などもあり、
1958年に鉄筋コンクリートで
和歌山城の外観をそのままに復元されました。
和歌山城の見どころとは?観光前に要チェック!
ここでは
和歌山城に見どころを
紹介していきます。
天守【和歌山城の見どころ】
現在の和歌山城の天守は
1968年に再建されたものです。
内部には、徳川家ゆかりの貴重な品が
数多く展示されている資料館となっています。
また、天守閣の最上階からは
和歌山市街の景色を360度眺めることができます。
西の丸庭園【和歌山城の見どころ】
和歌山城西之丸庭園は城郭内にある
江戸時代初期の大名庭園です。
紅葉が見事なことから
「紅葉渓庭園」とも呼ばれています。
戦災などによって焼失しますが、
1972年に再建されたものが、国の名勝に指定されています。
岡口門【和歌山城の見どころ】
岡口門は、築城時には
表門(大手門)でしたが、浅野氏の
途中から裏門(搦手門)となります。
現存する門は、1621年に
徳川家が建造した2階建てのもので、
空襲でも焼けずに残った貴重な遺構です。
国の重要文化財に指定されています。
最後に
この記事では和歌山城の歴史や城主、
観光での見どころについても
なるべくわかりやすく解説しました。
日本のお城の歴史や城主に興味のある方や
これから和歌山城を観光する方などにとって、
この記事が少しでも参考になれば幸いです。