山岡鉄舟ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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山岡鉄舟の像
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山岡鉄舟〈決定版〉

 

山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)
幕末期(江戸時代後期)から
明治時代までを生きた幕臣、政治家です。

誕生時期:1836年7月23日
死亡時期:1888年7月19日

 

勝海舟の従者として西郷隆盛を説得し、
幕末の三舟」の一人と呼ばれています。

 

山岡鉄舟とは何をした人だったのか?
どんな人だったのか?などなど
山岡鉄舟について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

山岡鉄舟って何をした人?

山岡鉄舟の武士道 (角川ソフィア文庫)

山岡鉄舟の誕生日

山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)は
1836年7月23日(天保7年6月10日)
江戸で徳川家康の時代から続く
旗本の家の長男として生まれます。

 

 

武芸を重んじる家であり、山岡鉄舟は
幼少期から神陰流、槍術樫原流、
北辰一刀流を学び、武道の達人だったのです。

 

また槍術は山岡静山に学び、
その妹結婚して山岡姓を名乗ります。

ちなみに山岡静山の弟は
幕末の三舟の一人である高橋泥舟なので
高橋は山岡鉄舟の義兄にあたります。

  • 勝海舟
  • 高橋泥舟
  • 山岡鉄舟

この3人が”幕末の三舟”です。

 

山岡鉄舟、西郷隆盛への使者

1868年、徳川慶喜
鳥羽伏見の戦いで敗北します。

 

勝海舟は征討大総督府参謀の西郷隆盛に
書を送る使者山岡鉄舟を抜擢したのです。

 

この時、刀がないほど
困窮していた山岡鉄舟は
友人から大小という日本刀を借りて
西郷隆盛のいる駿河にまで向かいます。

山岡鉄舟は、官軍が警備する中を堂々と
大声で叫びながら歩いたそうです。

「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」

勝海舟の従者として訪れた
山岡鉄舟の会談に西郷隆盛は応じます。

 

山岡鉄舟による説得

山岡鉄舟は勝海舟から
託された書を西郷隆盛に渡します。

西郷隆盛は以下の条件を提案します。

  1. 江戸城を明け渡す
  2. 城内の兵を向島へ移す
  3. 兵器をすべて差し出す
  4. 軍艦をすべて引き渡す
  5. 将軍徳川慶喜の身柄を備前藩(岡山県)に預ける

山岡鉄舟はほとんどの条件を飲みますが
最後の徳川慶喜については断固拒否します。

西郷隆盛も
「これは朝廷の命令だ」と凄みますが、
山岡鉄舟は次のように説得します。

西郷隆盛さんがお仕えしている島津の殿様
もしも徳川慶喜公と同じ立場であったら、
あなたは島津様を人質になさるというのですか?

この決死の覚悟で説得をする
山岡鉄舟の言い分に西郷隆盛は応じたのです。

その後、西郷隆盛と勝海舟との間で
会談が行われ、江戸無血開城が行われました。

 

山岡鉄舟に対して西郷隆盛は
”金も名誉も命も要らぬ、始末に困る人”と評価したそうです。

 

山岡鉄舟と明治維新

明治維新の後、山岡鉄舟は
徳川家に従って駿河へ移ります。

 

廃藩置県に伴って新政府に出仕し
静岡県権大参事、茨城県参事、
伊万里県権令などを歴任します。

 

1872年から10年間は
西郷隆盛の推薦を得て
明治天皇のおそばに仕えます。

 

明治維新の動乱に倒れた人々を弔い、
1885年には一刀正伝無刀流を立ち上げます。

 

山岡鉄舟の最期

山岡鉄舟は
1888(明治21)年7月19日
胃がんによって亡くなります。享年53歳。

皇居に向かい、座禅の結跏趺坐(けっかふざ)をしたまま亡くなったそうです。

 

最後に

剣禅話 (現代人の古典シリーズ 9)

山岡鉄舟とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
山岡鉄舟について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

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