今川義元の死因は戦死?いつ誰が殺害した?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】
結論からいいますと
今川義元の死因は戦死です。
- 今川義元の誕生時期:1519年
- 今川義元の命日:1560年6月12日
※今川義元の最期の年齢は41歳
今川義元はあの桶狭間の戦いで
織田信長軍によって殺されました。
最初に今川義元を襲ったのは
織田家の家臣の服部一忠で
最後に今川義元を殺害した犯人は
毛利新助だったと伝わっています。
今川義元は殺される最期
毛利新助の指を噛みちぎり
最後まで抵抗したそうです。
目次
今川義元はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
今川義元(いまがわよしもと)とは
戦国時代(室町時代後期)を生きた大名、武将です。
- 今川義元の誕生時期:1519年
- 今川義元の命日:1560年6月12日
※今川義元の最期の年齢は41歳
この記事では
今川義元とはどんな人だったのか
家紋や城、子どもなどについても
わかりやすく簡単に解説していきます。
今川義元の死因考察にぜひお役立てください💡
柴犬
今川義元の誕生日
今川義元は1519年に駿河(現・静岡県)で
今川氏親(うじちか)の5男として誕生。
※今川義元の具体的な誕生日は不明です。
子どもの頃は仏門に出されましたが、
兄達が亡くなった為、
今川義元が今川家の家督を相続します。
今川義元と武田軍
武田家と同盟を結んで
北条氏とも和睦をして三国同盟を締結。
駿河、遠江、三河を支配し
東海地方第一の勢力となります。
今川義元の最期
1560年6月12日
織田信長と戦った桶狭間の戦いで
今川義元は戦死します。享年41歳。
今川義元の息子はどうなった?
今川義元の息子は
今川氏真(うじざね)です。
武田信玄の姉である
定恵院(じょうけいいん)との間に生まれました。
父の今川義元が亡くなった後に、
今川家の人質であった徳川家康は
織田信長と同盟を結んで今川家から独立します。
その後、武田家との同盟も破棄され
今川家は滅亡寸前となります。
そして徳川家康軍に囲まれ
今川義元の息子「今川氏真」は降伏。
今川氏真は妻の実家の北条家がある小田原へ移り住みます。
今川義元の最期の年齢は41歳でしたが
今川氏真は77歳まで長生きしたと言われています。
今川義元の城について
今川義元のお城として有名な
駿府城(すんぷじょう)は1399年に
今川泰範によって築城されました。
今川館とも呼ばれています。
しかし、1568年12月に武田信玄による
駿府侵攻によって焼失してしまいました。
1585年に徳川家康が、
今川館跡に新たな駿府城を築いたのです。
残念ながら今川家の今川館は残っていません。
今川義元の家紋について【足利二引両紋、赤鳥紋】
今川義元は2つの家紋を使用していました。
- 足利二引両紋
- 赤鳥紋
これらの家紋について以下で簡単に解説します。
足利二引両紋【今川義元の家紋】
今川義元が使用した1つは
足利二引両紋(あしかがにひきりょうもん)という家紋。
今川家はあの室町幕府を築いた
足利家の一門でもある名家なのです。
赤鳥紋【今川義元の家紋】
今川義元が使用したもう1つは
赤鳥紋(あかとりもん)という家紋で
由来は2つあります。
一つは、”戦いに女性の道具は
幸運の象徴である”ということから
当時女性が使う櫛の汚れをとる垢取り(あかとり)が
由来となっているという説があります。
もう一つは、今川義元の先祖が
「赤い鳥と共に戦うべし」という
神託を受けたからという説です。