北条政子とは?どんな人?【演説や墓についても解説】

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源頼朝と北条政子の像
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北条政子 (文春文庫)

 

北条政子(ほうじょうまさこ)とは
平安時代末期から鎌倉時代まで生きた女性です。

誕生時期:1156年
死亡時期:1225年8月16日

 

北条時政の子ども(長女)であり
鎌倉幕府を開いた源頼朝正室(妻)にもなった人物です。

 

この記事では
北条政子とはどんな人だったのか
演説やお墓についてなども紹介していきます。

 

 

 

北条政子ってどんな人?

北条政子―母が嘆きは浅からぬことに候 (ミネルヴァ日本評伝選)

北条政子の誕生日

北条政子は1157年に
伊豆(現・静岡県)で生まれたとされています。
※北条政子の具体的な誕生日は不明です。

 

北条政子の父は、
後に鎌倉幕府の初代執権となる北条時政です。

 

 

北条政子、源頼朝の正室(妻)に

 

平治の乱で敗れた源義朝
息子であった源頼朝が伊豆へ流されます。

北条時政が源頼朝の監視役となりますが
北条政子は源頼朝と恋仲になることになります。

 

はじめは2人の恋仲について
父「北条時政」に反対されますが、
後に認められて、1177年頃に
北条政子は源頼朝の正室(妻)となります。

 

北条政子は、夫の源頼朝の相談相手となり、鎌倉幕府をつくるのに貢献します。

 

 

北条政子は嫉妬深かった?

当時は一夫多妻制が当たり前でしたが、
北条政子はかなり嫉妬深かったようです。

それは北条政子が妊娠中のときのこと。

夫の源頼朝は亀の前を寵愛していて、
近くの屋敷に呼び寄せて通うようになります。

このことを時政の後妻の牧の方から
聞いた北条政子は大激怒。

後日政子は、牧の方の父の牧宗親に
亀の前が住んでいる広綱の屋敷を破壊するように命じ、決行させたのです。

 

 

北条政子、「尼御台」に

尼将軍 北条政子

 

1199年、夫の源頼朝が亡くなります。

頼朝と政子の長男であった源頼家(よりいえ)
家督を継ぎ、2代鎌倉幕府将軍となります。

北条政子は出家し「尼御台(あまみだい)」と呼ばれ
鎌倉幕府をけん引して幕府の基盤を作ります。

 

しかし、頼家が殺されてしまい、
次男の3代将軍の源実朝(さねとも)も殺されます。

 

 

北条政子の最高の演説とは?

 

子どもたちが殺されてしまい、
源頼朝の血が途絶えたことから、
後鳥羽上皇は鎌倉幕府を滅ぼせると考えます。

そして後鳥羽上皇は承久の乱を起こします。

 

北条政子は、動揺していた鎌倉幕府に
仕える武士たちを集めると、次の演説をします。

頼朝公が平氏を征伐して、
関東の幕府を創設して以来、
皆の官位といい、収入といい、
その御恩は山よりも高く、海よりも深い

 

この演説を聞いた御家人たちは涙を流して感動し、
亡き頼朝公への忠誠を誓わせたのです。

これは、日本史上最高の演説と評されています。

 

 

北条政子の最期

 

1225年、病で倒れた北条政子は亡くなります。享年69歳。

 

 

北条政子のお墓について

北条政子

 

北条政子のお墓は、2つあります。

簡単に紹介します。

 

寿福寺【北条政子の墓】

 

北条政子の墓は寿福寺の裏山の穴の中にあります。

寿福寺は源氏ゆかりの地であり、
源頼朝が亡くなった際に北条政子は
京都から臨済宗の開祖である栄西を呼び寄せて寿福寺を創建しています。

 

 

安養院【北条政子の墓】

 

北条政子のお墓は安養院にもあります。

髪を剃った出家姿の
北条政子像が安置されています。

写真で見たことがある方も
多いのではないでしょうか?

 

1225年に北条政子が
源頼朝の菩提を弔うために建てた長楽寺が前身だそうです。

 

 

最後に

新マンガ日本史 12号 北条政子 決戦、承久の乱!

 

この記事では
北条政子ってどんな人だったのか
演説や墓などについても紹介しました。

 

 

 

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