北条時政の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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侍の最期
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結論からいいますと
北条時政の死因は腫物よる病死です。
※腫瘍(しゅもつ):腫れ物。皮膚の一部がはれて、中にうみなどをもったもの。

  • 北条時政の誕生時期:1138年
  • 北条時政の命日:1215年2月6日

※北条時政の最期の年齢は77歳

北条時政が生きた時代から考えると、最期の年齢である77歳はかなりの高齢なので、死因は暗殺ではなく病気である可能性が高いと推測できます💡

柴犬

 

「吾妻鏡」という歴史書にも
北条時政の最期(最後)について
伊豆での病死だと記載されています。

 

 

北条時政はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

北条時政と北条政子―「鎌倉」の時代を担った父と娘 (日本史リブレット 人)

 

北条時政(ほうじょうときまさ)
平安時代末期から鎌倉時代までを生きた武将です。

  • 北条時政の誕生時期:1138年
  • 北条時政の命日:1215年2月6日

※北条時政の最期の年齢は77歳

 

北条時政は、あの北条政子の父親です。
北条政子源頼朝の正室(妻)

 

北条時政はどんな人だったのか
何をした人なのか、などなど
北条時政の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉を解説していきます。

北条時政の死因考察にお役立てください💡

柴犬

北条時政の誕生日

北条時政は1138年(保延4年)
伊豆国北条(現・静岡県)
誕生したと言われています。
※北条時政の具体的な誕生日は不明です。

 

桓武平氏高望流の子孫と伝わっていますが、
疑問視している専門家も少なくありません。

 

北条時政の祖父は北条時家
北条時政の父は北条時方、
であることは確かなようです。

 

源頼朝と北条政子の結婚

平治の乱で敗れた源義朝の息子であった
源頼朝は伊豆へ島流しの刑になります。
※伊豆の場所:静岡県東部

 

北条時政が活躍するようになったのは、
源頼朝が伊豆に流されてからです。

 

伊豆の在地豪族であった北条時政が、
流刑人である源頼朝の監視役を勤めます。

 

そして、北条時政の娘である北条政子
源頼朝と恋仲になり結婚をするのです。

 

はじめ北条時政は
2人の結婚を反対していましたが、
結局は認めて、源頼朝の協力者となったそうです。

 

北条時政と源頼朝

平安時代末期の1180年、
以仁王が平家に対して挙兵し、
源平合戦(治承寿永の乱)が始まります。

 

この時、北条時政は
婿である源頼朝と共に戦います。
※婿(むこ):娘の夫

最初の石橋山の戦いでは大敗し、
北条宗時が討ち死にしてしまいます。
※北条宗時:北条時政の嫡男(子ども)

 

北条時政は源頼朝の命を受けて
甲斐の武田信義らを味方につけ、
その後、富士川の戦いにて
源頼朝と共に戦い、平氏に勝利します。

 

北条時政と壇ノ浦の戦い

1185年、壇ノ浦の戦いによって
ついに平氏が滅亡し、鎌倉幕府が成立。

 

源頼朝は、後白河法皇
「守護・地頭」の設置を認めさせるために
北条時政を京へ送り込みます。

北条時政は1000騎の兵を率いて、
強制的に後白河法皇の院政停止を断行。

 

そして北条時政は京の管理を任されて
京都守護と呼ばれるようになりますが、
わずか4か月で京を離れています。

 

源頼朝の死

1199年に北条時政の娘である
北条政子の夫「源頼朝」が亡くなります。

このあたりから次第に
北条時政は政治の有力者となっていきます。

 

鎌倉幕府の次期将軍には
源頼朝の子どもである源頼家が就任。

この源頼家(みなもと よりいえ)は
源頼朝の急死の後、18歳で家督を相続しています。

鎌倉幕府2代将軍となった源頼家は、
比企氏の一族を高い地位を与えます。

北条時政はそのことに
不満を感じていたそうです。

 

北条時政と比企能員の変

1200年、北条時政は遠江守に任じられ、
源氏一門以外で初の国司となります。

この時、比企氏も
さらに力をつけていて、
両者の対立は深まります。

そして、1203年。

北条時政は比企能員(ひきよしかず)
なんと自邸に呼び出して殺害し、
2代将軍の源頼家を退かせて伊豆へ追放します。

この事件は、
比企能員の変と呼ばれています。

そして源頼家の弟であった12歳の源実朝
3代将軍とし、北条時政が初代執権に。

こういった流れで北条時政は
日本の政治の実権を握ることとなりました。

 

北条時政、失脚

しかし1205年、
北条時政は3代将軍の源実朝を殺害して、
平賀朝雅を新将軍にしようとします。

これは後妻である牧の方が、娘婿である
平賀朝雅を将軍にしたいとそそのかされたから。

そして、陰謀は失敗してしまいます。

 

幕府で孤立してしまった北条時政は、
出家をして伊豆国の北条へ隠居させられます。

 

北条時政の最期

1215年2月6日(建保3年1月6日)、
北条時政は伊豆で病死します。享年77歳。

 

北条時政の死因は腫物よる病死です。
※腫瘍(しゅもつ):腫れ物。皮膚の一部がはれて、中にうみなどをもったもの。

  • 北条時政の誕生時期:1138年
  • 北条時政の命日:1215年2月6日

※北条時政の最期の年齢は77歳

北条時政が生きた時代から考えると、最期の年齢である77歳はかなりの高齢なので、死因は暗殺ではなく病気である可能性が高いと推測できます💡

柴犬

「吾妻鏡」という歴史書にも
北条時政の最期(最後)について
伊豆での病死だと記載されています。

 

 

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