石田三成(いしだみつなり)は安土桃山時代を生きた武将・大名です。
関ケ原の戦いで徳川家康に大敗し、
石田三成は処刑されてしまいます。
そんな石田三成には
子どもはいたのでしょうか?
この記事では
石田三成の子孫(子供たち)について紹介していきます。
石田三成の子孫(子供たち)について
石田三成には男の子が3人と女の子が3人いたとされています。
■石田三成の息子
- 石田重家
- 石田重成
- 石田佐吉(清幽)
■石田三成の娘
- 長女(山田勝重室)
- 次女(岡重政室)
- 辰姫
石田三成の子孫(子どもたち)は
徳川家康によって根絶やしにされたのでは?
と思っている方も少なくないかもしれません。
しかし石田三成の子どもたちは
意外にもしっかりと生存して、
さらに子ども(石田三成の孫)を残していたのです。
石田三成の子孫(子どもたち)について、以下で簡単に紹介します。
石田重家【石田三成の子孫(子ども)】
石田重家(しげいえ)は、
石田三成の長男(嫡男)です。
関ケ原の戦いの時に
13~16歳位だった石田重家は
豊臣家に対する人質として
大阪城に留まっていたと言われています。
関ケ原の戦いで父の石田三成が敗れた後、
石田重家は京都の妙心寺に逃れたといわれています。
妙心寺に逃げた石田重家は、
髪を剃り落として出家します。
出家して助命嘆願した石田重家は、死罪を免れます。
石田重成【石田三成の子孫(子ども)】
石田重成(しげなり)は、
石田三成の次男です。
豊臣秀吉の息子である豊臣秀頼に
小姓として仕えたと言われています。
関ケ原の戦いで父の石田三成が敗れた為
同じく秀頼の小姓であった津軽信建の助けで
津軽(現・青森県)に逃れたそうです。
その後は「杉山源吾」と名乗って隠棲し、
2人の妻と3人の子どもをもうけています。
重成の長男である杉山吉成は、
弘前藩主の津軽信枚(つがるのぶひら)の娘と
結婚して家老職に就きます。
杉山吉成の家系は幕末まで
弘前藩の家老職を務めたと言われ、
現在まで石田三成の子孫は
青森県で続いていると言われています。
石田佐吉【石田三成の子孫(子ども)】
石田佐吉(さきち)は石田三成の三男です。
関ケ原の戦いの時にまだ元服しておらず、
幼名の佐吉と法名のみ伝わっています。
合戦の際には佐和山城内に居たとされ、
その後家臣の津田清幽(きよふか)が
高野山まで送り届け、さらに徳川家康に嘆願。
石田佐吉は出家を条件に助命されています。
そして石田佐吉は出家し、
自らの法名を「清幽」としています。
津田清幽への感謝の気持ちが伝わりますね。
山田勝重室【石田三成の子孫(子ども)】
山田勝重室は石田三成の長女ですが、
名前は伝わっていません。
石田家臣であった山田勝重に嫁いだようで、
三男一女をもうけたと伝えられています。
岡重政室【石田三成の子孫(子ども)】
石田三成の次女も名前が伝わっておらず
岡重政に嫁いだことから岡重政室と言われています。
岡重政は蒲生家の家臣であったと伝えられています。
辰姫(たつひめ)【石田三成の子孫(子ども)】
石田三成の三女の辰姫(たつひめ)は
豊臣秀吉の死後に、
豊臣秀吉の正室のおねの養女となります。
その後、関ケ原の戦い後は
石田重成と共に津軽へ逃れ、
津軽信枚の正室(妻)になっています。