直江兼続ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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直江兼続の像
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直江兼続 (Truth In History 15)

 

直江兼続(なおえかねつぐ)とは
戦国時代(室町時代末期)に誕生し
江戸時代前期まで生きた武将です。

誕生時期:1559年
死亡時期:1620年1月23日

 

 

米沢藩初代藩主である
上杉景勝(うえすぎかげかつ)家老として務めました。

 

この記事では
直江兼続とはどんな人だったのか
何をした人かをわかりやすく簡単な言葉で解説していきます。

 

 

直江兼続ってどんな人?

戦国人物伝 直江兼続 (コミック版日本の歴史)

直江兼続の誕生日

直江兼続は、1560年(永禄3年)
越後(現在の新潟県)樋口兼豊(ひぐちかねとよ)
長男として生まれたとされています。
※直江兼続の具体的な誕生日は不明です。

 

直江兼続が有名になるまでの生い立ちには
諸説ありますが、直江兼続の若くして
優れた器量を見込んで上杉景勝の母(仙桃院)に、
上杉景勝の近侍として取り立てられます。

上田長尾家当主の長尾政景が亡くなると
上杉謙信の養子となって春日山城へ入る
上杉景勝に同行したと伝えられています。

 

 

また、上杉謙信に美貌と才能をかわれて寵愛されていたと言われています。

 

 

直江兼続の優れた執政

1581年、上杉景勝の側近である
直江信綱と山崎秀仙が毛利秀広に殺害されます。

上杉景勝の命令で直江兼続は、
直江信綱の妻であった婿養子となり
跡取りのいなかった直江家を継ぐこととなります。

 

1584年に、上杉景勝の側近であった
狩野秀治が亡くなると、直江兼続は
内政外交において手腕を発揮します。

 

佐渡征伐や小田原征伐、文禄・慶長の役など
上杉景勝の主要な戦いにも従軍していて、
その才能は豊臣秀吉にも気に入られていました。

 

 

直江兼続と直江状

直江兼続と上杉家家訓十六箇条

 

直江状とは、1600年(慶長4年)
4月14日付けで、会津の直江兼続から
京都豊光寺の西笑承兌(さいしょうじょうたい)
という僧に宛てた手紙です。

まず西笑承兌が、徳川家康から
裏切りの疑いをかけられている上杉景勝に
対して釈明の手紙と上洛することを手紙で促します。

 

それに対して家老の直江兼続が
真向から反論した手紙が直江状です。

しかし原本などは残っておらず
直江状の真偽は論争が続いています。

 

 

直江兼続と関ヶ原の戦い

直江兼続と関ヶ原の戦いの謎 <徹底検証> (講談社文庫)

 

とにもかくにも、この直江状が
歴史上で最も有名ともいえる
関ヶ原の戦いきっかけとなります。

 

 

1600年に起きた関ヶ原の戦いでは
会津の上杉景勝征伐の号令をかけた
徳川家康は手前の小山に陣をとります。

会津に留まる上杉景勝は、直江兼続を
総大将として最上軍と戦闘を繰り広げます。

しかし長谷堂の陣で徳川軍の勝利を知った上杉軍は、決死の覚悟で会津へ退却します。

 

 

直江兼続と減封

<直江兼続と戦国時代>直江兼続の大減封克服策 (歴史群像デジタルアーカイブス)

 

関ヶ原の戦い後、上杉景勝は
上洛して徳川家康に謝罪をしますが
会津120万石であった領地が
米沢30万石に減封されてしまいます。

直江兼続も上杉景勝と共に米沢へ移り、
新たな土地の開墾を進めるために治水事業に尽力します。

松川の氾濫を防ぐために
谷地河原堤防を
築いたり、
街の整備や殖産興業、鉱山の開発を推進するなどして、米沢藩の発展に取り組みます。

 

 

直江兼続の最期

直江兼続は
1620年1月23日(元和5年12月19日)に病死します。享年60歳。

 

最後に

実伝 直江兼続 (角川文庫)

 

この記事では
直江兼続とはどんな人だったのか
何をした人かをわかりやすく簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

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